別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2015年10月29日木曜日

源頼朝と丹後局の伝説・・・茅ヶ崎:懐嶋山の碑



懐嶋山の碑は、源頼朝と丹後局との間に生まれたという島津忠久の胎盤が埋められたという場所に建てられています。

「えな塚」(胞衣塚)と呼ばれてきました。

※島津忠久は薩摩国を本拠地とした島津氏の祖。


伝説によると・・・

丹後局が頼朝の子を身籠ったことを北条政子に知られてしまいます。

頼朝は比企能員に命じて丹後局を大庭景能邸に預けました。

その後、頼朝が建てた桜屋敷に移って男子を出産。

三郎と名付けられたそうです。

7歳になった三郎は1185年(文治元年)6月15日、鶴岡八幡宮で頼朝と対面。そのとき「忠久」と名乗ったのだといいます。


妙運寺

一説によると、現在妙運寺が建てられている辺りに桜屋敷があったのだとか・・・。




鎌倉の源頼朝墓は、江戸時代に島津忠久の子孫・重豪が建てたものと伝えられています。

重豪は、反感を抱いていた徳川幕府に対し、頼朝の墓を建てることで、その「家柄」を示したともいわれています。

頼朝墓の東の山裾には、重豪が頼朝墓とともに整備した島津忠久の墓があります。


こういった話の展開からすると、島津忠久は頼朝の子とも思えますが・・・

1185年(文治元年)に7歳ということは、丹後局が出産したのは頼朝が挙兵する前の出来事ということになります。

まだ頼朝が伊豆国に配流の身だった1179年(治承3年)頃の出来事ということなのでしょう。

『吾妻鏡』には、1182年(養和2年)3月9日、北条政子が懐妊したとき、丹後局が着帯の儀の手伝いをしたことが記録されています。

頼朝の子を身籠り、大庭景能邸に預けられ、頼朝が建てた桜屋敷で出産した丹後局に着帯の手伝いさせるなどあり得ないことなのかもしれません。


頼朝と丹後局の伝説は、厚木市の小町神社や大阪の住吉大社などにも残されています。

丹後局は、頼朝の乳母で伊豆に流された頼朝を支援してきた比企尼の娘。

惟宗広言と結婚して忠久を出産したという説が有力のようです。

その後、広信と離婚し、頼朝の側近・安達盛長の妻となったのだということです。








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