別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2011年8月14日日曜日

主馬盛久頸座~鎌倉に残された親子の伝説~

「主馬盛久頸座」は、由比ガ浜大通りにある史跡で、平清盛の側近平盛国の子盛久が処刑されそうになった場所と伝えられています。




1185年(元暦2年)3月24日、平家が壇ノ浦に滅びます。


盛久は戦場から逃亡し、翌年、京都で捕らえられ鎌倉へ送られてきました。

そして、1186年(文治2年)6月28日、
由比ヶ浜で処刑されるはずでしたが・・・

役人の振りかざした太刀が折れてしまうという不思議な現象が起きたため、処刑は中止されます。

盛久は、京都清水寺の観音菩薩を信仰していました。

「観音菩薩の加護で刀が折れて処刑することが出来なかった」という報告を受けた源頼朝は、盛久の罪を許したといいます。


そういえば・・・

頼朝も京都清水寺から下された聖観音像を守り本尊としていました。

(参考:源頼朝の守り本尊~正(聖)観音像~


謡曲「盛久」




さて、盛久の父盛国はどうなったのでしょう?

盛国は、壇ノ浦の戦い後捕らえられ、平家の総大将平宗盛とともに鎌倉へ送られてきます。


『吾妻鏡』によると・・・

盛国は命を助けられ岡崎義実に預けられていました。

日夜無言のまま法華経を唱えていたといいます。

そして、断食をしたまま、1186年(文治2年)7月25日に亡くなりました。

このことを聞いた頼朝は、法華の持経者を死なせてしまったことを恥じたそうです。


そういえば・・・

頼朝は、「法華八軸の持者」と呼ばれるほど、法華経を信仰していた人でした。
(参考:源頼朝の守り本尊~正(聖)観音像~




この親子、もしかして「鎌倉で再会していた」ということもあるのでしょうか・・・?


 主馬盛久頸座






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