別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2011年8月4日木曜日

源頼朝の挙兵・・・山木館襲撃

1180年(治承4年)4月27日、以仁王が発布した平家打倒の令旨源頼朝のもとに届けられます。

頼朝はしばらく静観していましたが、以仁王源頼政とともに敗死し、平家が全国の源氏追討を企てていることが三善康信の書状によって報告されます。

この報告によって、頼朝は挙兵の決意をしたと考えられています。


『吾妻鏡』によると・・・

1180年(治承4年)8月4日、源頼朝は、北条時政を呼んで伊豆の目代山木兼隆を討つための軍略を練ります。


~山木兼隆とは~

山木兼隆は、父和泉守信兼の訴えによって伊豆国の山木郷に配流された流人でしたが、元々は平家の一族ですので、この頃は平清盛の権を借りて、伊豆の目代となり郡郷を支配していました。

当時、伊豆国の知行国主は「平家にあらずんば人にあらず」と言い放った平時忠です。

時忠は一族の時兼を国守としますが、時兼は赴任せず、兼隆を目代とし、堤権守信遠がその後見をしていました。

頼朝は、伊豆国目代山木兼隆を初戦の相手に選びます。

しかし、山木の館は要害の地にあって、攻めるのに困難をきわめると推測されていました。


香山寺

香山寺は、山木兼隆が建立した寺と伝えられています。

香山寺
香山寺の山門は、元韮山県庁の門


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

~館絵図の作成~

そこで、頼朝は、この日以前に藤原邦通を密偵として山木館に送り込んで、館図や地図を作らせていました。

そして、この日、邦通が作成した館図と館付近の地図を頼朝に届けたのです。

その出来映えは、まるで現地にいるかのようなものだったといいます。


山木兼隆邸跡


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

~山木館襲撃~

この日より2日前の8月2日、大庭景親をはじめとする東国武士が京都から戻ってきています。

これは、平家による関東制圧を目的としています。

もちろん頼朝を討つための・・・

したがって、頼朝の行動も火急を要していました。

8月6日には、山木館襲撃を17日と決定しています。

この日頼朝は、工藤茂光土肥実平岡崎義実・宇佐見祐茂・天野遠景佐々木盛綱加藤景廉など、当時頼朝の下に集まっていた武士を一人一人部屋に呼んで丁寧に言葉をかけたといいます。

8月17日は、三嶋大社の祭礼です。

頼朝は祭りの雑踏を利用して山木館を襲撃しようとしたのだと伝えられています。

伊豆国目代山木兼隆を討った頼朝は相模に進軍します。

8月24日、石橋山の戦い大庭景親伊東祐親らに敗れますが、真鶴から海路安房に渡り、10月6日、鎌倉入りを果たします。


山木兼隆の五輪塔
(香山寺)





源頼朝配流の地・北条氏発祥の地

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山木館襲撃~源頼朝の挙兵~

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