(参考:源頼朝の上洛・・・権大納言・右近衛大将)
~右大将と政所下文~
上洛の際、頼朝は後白河法皇や後鳥羽天皇に謁見しますが、かねてから望んでいた征夷大将軍の官職は与えてもらえず、代わりに右近衛大将の職が与えられました(権大納言兼任)。
12月1日、頼朝は盛大な拝賀の儀式を行いますが、12月4日には両方の職を辞任しています。
鎌倉に帰った頼朝は、1191年(建久2年)正月15日、政所の文書はじめを行っています。
右近衛大将は辞任しましたが、政所下文には「前右大将」(さきのうだいしょう)という肩書きを利用しています。
(※右近衛大将=右大将)
~征夷大将軍~
1192年(建久3年)3月、後白河法皇が亡くなりました。
法皇の死によって頼朝と連携してきた九条兼実が関白となり、兼実の弟慈円は天台座主、娘は後鳥羽天皇の中宮となります。
そして、7月、頼朝は念願の征夷大将軍に任命されます。
源頼朝像 |
「征夷大将軍」というのは、古代律令国家において、「東夷」(あずまえびす)を討伐するために任命された職です。
天皇の判断を仰ぐ必要がない「軍の最高司令官」としての権限が備わっていたといわれていますので、鎌倉に武家政権を樹立し、全国の武士の総帥となった頼朝にとっては、一番合った職だったのかもしれません。
奥州藤原氏を倒した後のことですので、「頼朝にとっては意味のない任命だった」
とする説もあるようですが、
その時の頼朝の地位を全国に知らしめるには、これ以上にない称号「征夷大将軍」ではなかったのではないでしょうか・・・。
~征夷大将軍の辞任~
さて、頼朝は征夷大将軍の職を数年で辞任しているという説があります。
これは、政所下文の形式をみるとわかるそうです。
1191年(建久2年)、鎌倉幕府には政所が正式に置かれました。
それ以後に出された政所下文には、「前右大将家政所下」と書かれているようです。
上述しましたが、前年、右近衛大将となった頼朝でしたが、すぐに辞任しているので「前右大将」としています。
そして、1192年(建久3年)に征夷大将軍となった後は「将軍家政所下」という形式となりますが、1196年(建久7年)以降では、再び「前右大将家政所下」に戻っているというのです。
現存する「政所下文」のみによる情報ですので、いつから「将軍家政所下」という形式を改めたのかは定かではありませんが、
もとの「前右大将家政所下」に戻した以前に「征夷大将軍を辞任していた」ということは言えるのかもしれません。
政所下文以外の文書にも「前右大将」と呼んでいる文書があるようですし、後年の文書にも1194年(建久5年)に「征夷大将軍を辞任した」ということが書かれているようです。
頼朝が征夷大将軍を辞任していたとすると、それは何故なのでしょうね?
1195年(建久6年)、頼朝は再び上洛し、娘大姫の入内の話を朝廷に持ち込んでいます。頼朝を征夷大将軍にしてくれた九条兼実との関係もあるのでしょうか・・・?
鶴岡八幡宮 |
鎌倉の歴史と源頼朝
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鎌倉手帳
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