別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2011年5月5日木曜日

ぶっけり仏~玉縄城主三代の墓:龍寳寺~

龍寳寺の裏山には「ぶっけり仏」と呼ばれている石塔があります。


ぶっけり仏~玉縄城主の墓~
玉縄城主の二代北条綱成(中央)、三代氏繁(右)、四代氏勝(左)の墓です。

この石塔は、村人が通りかかるといつも倒れていたそうです。
直しておくのですが、いつのまにかまた倒れているので、
「ぶっけり仏」と呼ばれるようになったと伝わっています。


~黄八幡と呼ばれた二代綱成~

龍寳寺開基の北条綱成は、福島正成という今川家の家臣でしたが、北条氏康(早雲の長男)の養子となり、玉縄城を与えられ二代目の城主となりました。

黄色の練絹に「八幡大菩薩」と書かれた旗を背に挿していたので「黄八幡」と呼ばれ畏敬されていました。


~上杉謙信を退けた三代氏繁~

1561年(永禄4年)、上杉謙信によって玉縄城が包囲されますが、綱成の子氏繁(三代玉縄城主)は、よく守り抜きこれを退かせました。


~玉縄城を開城した四代氏勝~

氏繁の子氏勝(四代玉縄城主)のときに豊臣秀吉の小田原攻めが行われます。

玉縄城の攻略は徳川家康によって行われましたが、家康は、開城を氏勝を説得するよう本多忠勝に命じたといいます。

忠勝は家臣を通じて龍寳寺の良達和尚に氏勝の説得を頼みます。

良達和尚が大長寺の源誉上人とともに氏勝を説得したことにより玉縄城は無血開城となりました(1590年(天正18年))。




1512年(永正9年)、北条早雲が築城して以来、難攻不落を誇った玉縄城も1590年(天正18年)開城され、1619年(元和5年)に廃城となりその歴史を終えました。