蛭ヶ小島に流されていた源頼朝と結婚し、頼朝が鎌倉に武家の都を創ると御台所として鎌倉幕府を支えました。
「政子」という名は父時政の名から付けられたと伝えられていますが、「政子」と呼ばれるようになったのは、1218年(建保6年)に従三位に叙せられたときからのようです。
それ以前はどのような名だったのでしょうか・・・?
(北条氏邸跡にある井戸)
政子の父北条時政の館は、成福寺の後方を流れる狩野川の東岸にありました。
この辺りは、室町時代、堀越公方と呼ばれた足利政知が留まった所でもあります。
(※政知は、室町幕府八代将軍足利義政の弟で、鎌倉公方として派遣されましたが鎌倉に入ることができませんでした。)
源頼朝が流されていたという蛭ヶ小島は、北条時政の館からさほど遠くない所にあります。
「頼朝・政子夫妻像」が建てられ、伊豆韮山の田園地帯を見つめています。
(源頼朝配流地)
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1180年(治承4年)8月17日、源氏再興を果たすために源頼朝は挙兵し、伊豆国目代の山木兼隆を討ちました。
山木兼隆が建てた香山寺には兼隆の供養塔が建てられています。
(※一説には、兼隆は政子と結婚するはずであったと伝えられています。)
山木兼隆を討った頼朝は相模へ進軍しますが、石橋山の戦いで敗れ海路安房へ渡ります。
政子は、長女大姫とともに伊豆山に留まっていました。
(※大姫は、1178年(治承2年)に生まれたといわれています。)
石橋山の戦いで敗れた頼朝は、真鶴町の岩海岸から安房に渡ったと伝えられています。
そして、1180年(治承4年)10月6日、大軍を率いて鎌倉に入りました。
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(由比ヶ浜)
10月11日、政子と大姫も鎌倉に入ります。
前日には稲瀬川に到着していたようですが、良日ではなかったため、日の調整のため、稲瀬川の民家に留まったといわれています。
当時の鎌倉は、この稲瀬川が西の境となっていたようです。
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1182年(寿永元年)8月、政子は男子を出産しました。
のちに二代将軍となる源頼家です。
(参考:源頼家の誕生)
鶴岡八幡宮社頭から由比ヶ浜までの参道は、政子の安産を願って造られました。
これと併せて、段葛や源平池も造営されています。
源平池には、源氏池に3つ、平家池に4つの島がありますが、当初はそれぞれに4つの島があったそうです。
政子の命によって源氏池の島が一つ壊されたと伝わっています。
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こんな事もありました。
政子が妊娠している間、頼朝は蛭ヶ小島にいたころから仕えていた亀の前を伏見広綱邸に住まわせ寵愛していました。
牧の方(父時政の後妻)からそのことを知らされた政子は、牧宗親に命じて広綱の屋敷を打ち壊させたといいます(参考:小坪路 鐙摺山)。
それに激怒した頼朝は、宗親の髻を切り落とすという辱めを与えますが、頼朝の仕打ちに怒った時政が伊豆に帰ってしまうという事件も起こっています。
小坪
小坪は現在の逗子市にある小さな漁村です。
頼朝が最初に亀の前を住まわせたのが小坪でした。
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1183年(寿永2年)、木曽義仲の嫡子義高が娘大姫の婚約者として鎌倉にやってきます。
しかし、実際のところは人質として送られてきたのでした。
大姫は義高をとても慕っていましたが、頼朝は、1184年(元暦元年)、源範頼・義経らを京に派遣し義仲を討つと鎌倉の義高をも殺害してしまいます。
それが原因で大姫は病に臥すことになります。
大姫が衰弱してしまったことで、政子は義高を討った堀親家の郎党の首を斬ったと伝えられています。
常楽寺の裏山の木曽塚は義高の墓と伝えられています。
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1186年(文治2年)、源義経の愛妾静御前が鎌倉に送られてきます。
4月8日、頼朝と政子は鶴岡八幡宮の若宮回廊で「静の舞」を観ました。
静が義経を慕う歌を歌いながら舞ったため、頼朝は激怒しますが、政子はそれをとりなし、静に褒美を与えたといわれています。
義経とともに逃亡を続けていた静は吉野山で義経と別れます。その後捕らえられ鎌倉に送られてきました。
この時、義経の子を身籠もっていましたが、生まれた子が男子だったことから由比ヶ浜に捨てられてしまいます。
政子は頼朝に助命を願いましたが許されなかったといいます。
参考までに、静は勝長寿院で大姫にも舞を披露しています。
この年、政子は次女三幡を出産しています。
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1192年(建久3年)、頼朝は征夷大将軍に任ぜられます。
そして、その年の8月9日、政子は次男の千幡を出産しました。のちの三代将軍源実朝です。
(参考:源実朝の誕生)
頼朝は、政子の安産祈願のために、相模国の神社仏閣27箇所に神馬を奉納し読経を命じています。
(参考:政子安産の祈願所)
逗子の古刹神武寺もその一つでした。
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1193年(建久4年)、頼朝は富士裾野で巻狩りを行います。
この巻狩りには長男頼家も同行し鹿を射止めました。
さっそく鎌倉の政子にそのことが知らされますが、
政子は、
「武家の子が鹿を射たくらいで・・・」
として使者を追い返したといわれています。
この巻狩りでは、大きな事件が発生しました。曾我兄弟の仇討ちです(参考:曾我兄弟)。
この事件で頼朝も討たれたとの情報が鎌倉に入ります。
動揺する政子に対して頼朝の弟範頼は「私がいるから大丈夫」と言ったそうです。
この言葉が謀叛の疑いを招き、範頼は修禅寺に流されました。
その後すぐ、梶原景時に攻められ自害しています。
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1195年(建久6年)、頼朝は東大寺大仏殿落慶供養に出席するため二度目の上洛をします。
政子、大姫、頼家も同行しました。
この時、大姫入内のはたらきかけを行っていますが、実現することはなく、大姫は1197年(建久8年)に亡くなっています。
扇ヶ谷にある地蔵堂です。
大姫の守本尊だった石造地蔵尊が祀られています。
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1199年(正治元年)1月13日、源頼朝が死去します。
相模川の橋供養に出席した際の落馬が死因とされていますが、詳しいことは不明のままです。
頼朝が渡り初めをしたという相模川に架けられた橋は、長い間地中に埋もれていましたが、関東大震災でその橋脚が浮かび上がってきたそうです。
この年、次女の三幡も亡くなっています(参考:畠山重忠邸跡)。
(茅ヶ崎市)
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1200年(正治2年)、政子は頼朝の父義朝の旧跡亀ヶ谷に壽福寺を建立します。
開山は我が国臨済宗の開祖栄西です。
創建当時は、天台・真言・禅の三宗兼学の寺院でした。
のちに鎌倉五山の第三位に列せられています。
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頼朝の跡は長男の頼家が継ぎますが、頼家の悪政に対する批判が多かったため、これまでの将軍独裁の政治から宿老13人による合議制による政治に改められています。
頼家は安達景盛の愛妾を横取りするという事件も起こしています。
景盛が不満に思っていることを知ると安達邸に攻め入ろうとしますが、政子が安達邸に入って事を収めたといいます。
1203年(建仁3年)、頼朝の弟阿野全成が謀叛の罪で捕らえられます。
全成の妻は政子の妹阿波局でした。頼家は阿波局の引き渡しも求めますが、政子がそれを許さなかったといいます。
全成は常陸国に流され誅殺されています(参考:阿野全成の誅殺)
同じ年、北条時政と比企能員の対立から比企の乱が発生します。
時政は能員を自邸に誘き出し暗殺、政子の弟義時が比企邸を襲い一族を滅亡させました。その中には頼家の嫡子一幡もいました。
頼家も伊豆修禅寺に流され、翌年暗殺されています。
政子が頼家の冥福を祈り建立したという指月庵の奥にあります。
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頼家の跡は次男の千幡(実朝)が継ぎました。
1205年(元久2年)、有力御家人畠山重忠が牧の方(北条時政の後妻)の讒言によって謀叛の疑いをかけられ討たれました(参考:畠山重忠の乱)。
その後、時政は、牧の方の女婿平賀朝雅を将軍に据えようとしますが、政子と義時に阻まれ、鎌倉を追放されます。
鎌倉を追放された時政は伊豆韮山に退きました。
1215年(建保3年)に亡くなっています。
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1219年(承久元年)1月27日、将軍源実朝が甥の公暁によって暗殺されました(参考:源実朝の暗殺)。公暁も三浦義村邸へ赴く途中で殺害されています。
これによって源家の血が途絶えたことになります。同時に政子にとってみれば全ての子を失ったことになります。
(秦野市)
源実朝の五輪塔
(壽福寺)
(壽福寺)
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将軍不在となったことから、政子は後鳥羽上皇の皇子を将軍として迎えようとしますが断れてしまいます。
しかたなく、藤原(九条)道家の子三寅を迎えることとなりました(のちの頼経)。
三寅はまだ2歳でしたので、政子が将軍の後見役となり「尼将軍」と呼ばれるようになります。
1221年(承久3年)、後鳥羽上皇は執権北条義時追討の院宣を下します。
尼将軍政子は御家人たちを前にして「故右大将の恩は山よりも高く海よりも深い・・・」と演説したと伝えられています。
北条泰時(義時の子)が出陣すると続々と兵が参集し、京に攻め入った幕府軍は勝利を収めます。
この事件で後鳥羽上皇をはじめとする三上皇が流罪となりました(参考:承久の乱)。
鶴岡八幡宮後方の今宮(新宮)には、承久の乱で流された後鳥羽上皇、順徳上皇、土御門上皇が祀られています。
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1225年(嘉禄元年)7月11日、源頼朝の妻として、頼家・実朝の母として、四代将軍藤原頼経の後見役として鎌倉幕府の基礎を築いた北条政子が亡くなります。69歳でした。
勝長寿院で荼毘に付され葬られたと伝えられています。
(壽福寺)
(安養院)
安養院の北条政子像
大町の安養院は、政子が1225年(嘉禄元年)、頼朝の菩提を弔うために笹目に建てた長楽寺を前身としています。
頼家の暗殺、時政の追放、実朝の暗殺・・・。
そのいずれにも何らかの形で関与したといわれる北条政子。
実際はどうだったのでしょうか・・・。
(伊豆の国市)
伊豆の国市の成福寺は、北条氏邸の一部に建てられた寺院だといわれています。