別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




okadoのブログは、『中世歴史めぐりyoritomo-japan』の別冊。
京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。


2010年12月10日金曜日

梶原と寺分の散策

梶原という地名は、かなり古くから呼ばれていて、平安時代の辞書『和名類聚抄』にも「梶原郷」と記されています。

さまざまな説がありますが、鎌倉権五郎景政を祖とする梶原氏が出た地と考えられています。

寺分は、「大慶寺分」という大慶寺の寺領だった土地で、「大慶」という文字を省略して「寺分」となったといわれています。



湘南モノレール「湘南深沢駅」から大船方面へ歩くと、
高野山真言宗の等覚寺東光寺の案内板があります。

指示どおりに進むとすぐに道祖神が置かれています。

そしてまた案内板

等覚寺
「出世子育て地蔵」で知られる高野山真言宗の寺です。
山号の休場山は、梶原景時が休んだ所だからだと伝えられています。
境内には、山崎合戦(洲崎合戦)で死んだ者の供養塔が並べられています。


~新田義貞の鎌倉攻め~



1333年(元弘3年)、鎌倉に攻め入ろうとする新田義貞軍と、それを防ごうとする赤橋守時軍は洲崎で激戦を繰り広げました。湘南モノレール下の道には「洲崎古戦場跡」の碑が建てられています。右の写真は「陣出の泣塔」です。合戦で死んだ者の供養塔であるともいわれています。



大慶寺
案内板までもどって東光寺方面に歩くと臨済宗の大慶寺があります。
等覚寺は梶原ですが、ここは寺分という地名になります。
大休正念の開山と伝えられ、関東十刹に入る寺院でした。
現在の大慶寺は、塔頭の一つ方外庵が残ったものです。
『新編相模国風土記稿』には、
「古は大慶廃寺の域内たりしを以て、大慶寺分と云ひしを・・・」
と記され、
「大慶寺分」という寺領が、「寺分」という地名の由来と伝えています。








駒形神社
寺分の鎮守です。
古くより、農業の神として崇められ、治承年間、この辺りを領していた大庭景親は、
「天候不順が止むよう祈願した」と伝えられています。






駒形神社は山の中腹にあって、社殿の正面には富士山が見えます。
薄くてよく見えないかもしれませんが・・・。

東光寺
そして、ここが最初の案内板にあった高野山真言宗の東光寺です。



御霊神社の庚申塔
東光寺から深沢中学校の西側の坂を下っていくと、
深沢小学校です。
その東側の山に御霊神社があります。

御霊神社
深沢小学校の東側が梶原の鎮守梶原神社です。
祭神は鎌倉権五郎景政です。
坂ノ下の御霊神社は、この神社を移したものともいわれています。





なきっつら橋の伝説
深沢小学校の校庭側の川に架かる橋です。
この橋は「なきっつら橋」とは関係ありません。
昔、この橋の向こうには用水が流れていました。
そして、その用水にも橋が架けられいました。
その橋が「なきっつら橋」と呼ばれていたそうです。

源頼朝の時代、仲の良い兄弟が住んでいたそうです。
ある日、兄弟は別れて住まなければならなくなりました。
「この兄弟が橋の袂で泣きながら別れを惜しんだ」ということから、
「なきっつら橋」と呼ばれるようになったといいます。
土地の人たちは、
結婚式の時などは、
兄弟が泣く泣く別れたこの橋を渡らないようにしたということです。

梶原景時の墓
深沢小学校の校舎裏のやぐらにある五輪塔です。
源頼朝の下で、その能力を存分に発揮した梶原景時は、
頼朝亡き後、御家人66人の弾劾に遭い鎌倉を追放されます。
翌年、上洛途中に駿河国清見関で討たれ最期を遂げました。
(参考:梶原景時の変
この四つの五輪塔は、景時とその一族の墓といわれています。
※ 深沢小学校の敷地内ですので、見学は許可をとってからお願いします。


 鎌倉手帳



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