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2024龍の口竹灯籠~江の島・龍口寺の秋~

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龍口寺 の 龍の口竹灯籠 は、参詣者の先祖や亡くなった方の供養、願い事の祈願が行われるイベント。 境内には青竹で作られた灯籠約3000基が並べられ、夕刻になると灯がともされて幻想的な世界が演出されます。 2024年は10月25日(金)・26日(土)の2日間。 午後5時~午後8時 龍口寺 龍口寺 は鎌倉時代の 刑場跡 に建てられた寺。 かつては灯籠流しが行われていましたが、2010年(平成22年)から「竹灯籠」に代わりました。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

「武家の都」の歴史が始まった日~源頼朝、鎌倉入り~

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『吾妻鏡』によると・・・ 1180年(治承4年)10月6日、 源頼朝 が率いる大軍が相模国へ。 翌日、鎌倉入りを果たした頼朝は、まず先祖の 源頼義 が建てた 鶴岡八幡宮 (由比若宮)を遥拝し、父の 源義朝 の旧跡(館跡)を訪問します。 由比若宮 鶴岡八幡宮 (由比若宮)は、1063年(康平6年)に前九年の役を平定した 源頼義 が創建した社。 出征する際、頼義は源氏の氏神である 石清水八幡宮 に戦勝を祈願。 その願いがかなえられたことを感謝して鎌倉の由比郷に 石清水八幡宮 を勧請したのだといわれています。 鎌倉に入った頼朝は、この社を小林郷に遷座し、武家の都の中心に据えました。 壽福寺 壽福寺 は 源義朝 の鎌倉之楯の跡に建てられた寺。 義朝はここを拠点に勢力の拡大を図り、 鎌倉権五郎景政 が開墾した 大庭御厨 の支配権に介入しています。 鎌倉に入った 頼朝 は義朝の旧跡に御所を置こうと考えていたようですが、土地が狭く、 岡崎義実 が建てた亡き父の御堂もあったことから、 大倉 (大蔵)の地を選んだのだといいます。 大倉(大蔵)には先祖の頼義館があったことも理由の一つのようです。

北条政子の日向参詣

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日向薬師 (伊勢原市) 「この国に2つとない効験のある薬師如来」といわれていた 日向薬師 。 1192年(建久3年)の 源実朝 誕生時には 安産の祈願所 となりました。 1194年(建久5年)には、 源頼朝 が参詣して娘 大姫 の病気快復を祈願しています。 北条政子日向薬師参詣行列 (伊勢原市・道灌まつり) 『吾妻鏡』によると 北条政子 も二度参詣しています。 一度目は1210年(承元4年)6月8日。 北条時房 ・源親広( 大江広元 の子)などが供をし、その日の夜には鎌倉に戻っています。 二度目は1211年(建暦元年)7月8日で 源実朝 の妻・ 坊門姫 も一緒でした。 供は、 北条時房 ・源親広・ 小山朝政 ・ 結城朝光 ・ 三浦義村 ・ 葛西清重 ・ 安達景盛 ・佐貫広綱・佐原兵衛尉・和田義直の十人。 それぞれに家来数十騎が並んでいたそうです。 翌日、灯りを灯す頃になって鎌倉に帰ってきたのだとか。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

鎌倉検定過去問~荏柄天神社のかっぱ筆塚と絵筆塚~

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荏柄天神社の境内には、漫画家清水崑の「( ① )」があり、1989年(平成元)に完成した( ② )は横山隆一ら漫画家百五十四人の漫画で飾られている。 漫画家清水崑の「かっぱ筆塚」や、横山隆一ら漫画家154人の漫画で飾られた「絵筆塚」 が境内にある神社はどこか。 天から天神(菅原道真)の画像が降った場所に建立されたという荏柄天神社の境内には、漫画家〔 ① 〕の「かっぱ筆塚」があり、その石碑の裏の文字は、鎌倉在住の作家〔 ② 〕が揮毫した。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ かっぱ筆塚 荏柄天神社 の 「かっぱ筆塚」 は、漫画家の清水崑が鎌倉の古道具屋で購入して愛用していた絵筆を納めるために建てられました。 筆を担いだ河童の絵が彫られています。 清水崑の河童は、黄桜酒造のキャラクターとして採用されました。 カルビーからは清水崑がキャラクターを描いた「かっぱあられ」が発売されました。 「かっぱえびせん」は「かっぱあられ」に由来しています。 裏側に彫られている「かっぱ筆塚」の文字は、作家川端康成の揮毫。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~「かっぱ筆塚」の祭~ 「かっぱ筆塚」 が建立されると、絵筆の祭りが行われるようになりますが、清水崑が他界すると途絶えがちに。 絵筆塚 清水崑の遺志を継いだ横山隆一は、絵筆の祭りを鎌倉の年中行事としようと計画し、新たに鉛筆をかたどった 絵筆塚 を建立します。 絵筆塚 には、日本漫画家協会に所属する漫画家たちが、それぞれのキャラクターを河童で表現したレリーフが飾られています。 絵筆塚 の建立以来、毎年10月に行われているのが 絵筆塚祭 。 絵筆塚祭 では、漫画家により寄せられた漫画絵の行灯が掲揚されます。 カッパ絵コンクールも開催され、子どもから大人まで、自分なりのカッパを描いた作品が拝殿に展示されます。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

敦成親王の呪詛事件と敦康親王を東宮にしたかった藤原伊周

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1008年(寛弘2年)9月11日、 藤原道長 の長女・ 彰子 が 一条天皇 の第二皇子・ 敦成親王 を出産しますが・・・ 翌1009年(寛弘3年)正月、 一条院 内裏で祈祷の際に用いられる道具が発見され、 藤原伊周 らが道長・彰子・敦成親王を呪詛していたのではないかという噂が流れます。 彰子が敦成親王を生んだことで、妹の 定子 が生んだ 敦康親王 が東宮(皇太子)になることの望みが薄くなっていたため、伊周が疑われたようです。 加持祈祷の呪詛をした僧・円能が捕えられ、厳しい拷問が行われた結果・・・ 依頼したのは、伊周の叔母・高階光子と伊周の家人・源方理らと判明。 二人は官位を剝奪され、伊周は公務を停止されてしまいます。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~伊周の望み~ 呪詛事件の前年12月、 敦成親王 の「百日の儀」が催されました。 伊周 は公卿が詠んだ和歌の序題を書こうとしていた 藤原行成 の筆を取り上げ、自作の和歌序を書いたのだとか。 その内容は 「第二皇子百日ノ嘉辰禁省ニ合宴ス」 敦成親王の百日の宴を宮中で盃を交わすというものだが、わざわざ 敦成親王 を第二皇子であることを強調。 つまり、第一皇子は伊周の妹・ 定子 が生んだ 敦康親王 であるということ。 さらに、 「隆周之昭王穆王ハ暦数長シ。我ガ君又暦数長シ。我ガ君又胤子多シ」 と続け、「隆周」( 道隆 と 伊周 父子)の繁栄は長いこと そして、 一条天皇 の在位も長く、 敦成親王 以外にもたくさんの嗣子がいること を訴えます。 最後に、 「康イ哉帝道。誰カ歓娯セ不ラン」 と書き、帝の治める道は安康であるとしたが、「康」は 敦康親王 の「康」を意味していたのだとか・・・ この場をわきまえない伊周の挙動は人々から非難されることになったのだといいます。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~伊周の死~ 公務を停止された伊周は6月に許されますが、1010年(寛弘7年)正月28日死去(37歳)。 『栄花物語』によると死因は飲水病(糖尿病)だったようですが、気力も体力も限界だったのかもしれません。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~一条天皇崩御~ 1011年(寛弘8年)6月13日、病が重くなった 一条天皇 は居貞親王( 三条天皇