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2024鶴岡八幡宮例大祭日程

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鶴岡八幡宮例大祭 は9月14日~16日。 9月14日 宵宮祭 18:00~ 和太鼓演奏 19:00~ (神童太鼓) 合唱会 16:00~ (北鎌倉女子学園コーラス部) 和太鼓演奏 19:00~ (神童太鼓) 献茶会 10:00~15:00 (宗徧流神奈川支部) 鎌倉囃子 終日 (大町地区) 9月15日 例大祭 10:00~ 神幸祭 13:00~ 日本舞踊 18:00~ (吾妻君香社中) 献茶会 10:00~15:00 (池田宗房社中) 献華会 終日 (永野貫玉社中・鎌倉国際華道協会) 鎌倉囃子 終日 (雪ノ下地区) 9月16日 流鏑馬神事 13:00~ 焼亡の舞 16:00~ (土肥会) 鈴虫放生祭 17:00~ 献茶会 10:00~15:00 (裏千家淡交会鎌倉支部) 献華会 終日 (永野貫玉社中・鎌倉国際華道協会) 鎌倉囃子 終日 (二階堂地区) ※日程は本日現在のものです。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

2024甘縄神明神社の例大祭~鎌倉最古の社の祭礼~

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ぼんぼり祭 9月7日(土)~13日(金) 18:00~20:00 民謡踊り大会・夜店 9月12日(木)・13日(金) 18:00~20:00 万灯神輿 9月7日(土) 18:00~ 神幸祭 9月8日(日) 12:00~ 例大祭式典 9月14日(土) 10:00~ 甘縄神明神社 甘縄神明神社 は、藤原鎌足の子孫・ 染屋時忠 の創建とされ、 源頼義 ・ 源義家 ・ 源頼朝 ・ 北条政子 ・ 源実朝 が信仰した社。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

円覚寺の童子に贈るための絵画が重要文化財に。~紙本墨画淡彩披錦斎図~

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紙本墨画淡彩披錦斎図 (根津美術館) 2024年(令和6年)8月27日、根津美術館所蔵の「紙本墨画淡彩披錦斎図」が重要文化財に指定されました。 「紙本墨画淡彩披錦斎図」は、爛漫の花をつけた木々に囲まれた一棟の書斎が描かれたもの(1464年(寛正5年))。 鎌倉の 円覚寺 の梁宗という童子を慕う僧が、童子に贈るため、夢に見た書斎を画に描かせ、画中の書斎の命名と着賛(賛文を書くこと)を依頼したものなのだとか。 書斎を披錦斎と名づけた鎌倉の禅僧・宗甫紹鏡他6名の序と賛があります。 円覚寺 円覚寺 は、1282年(弘安5年)、八代執権 北条時宗 が開山に宋の禅僧 無学祖元 を招いて建立した寺。 宗甫紹鏡は、十五世 夢窓疎石 の系統。 第百四十五世の芳林中恩は宗甫紹鏡の弟子らしい。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

国宝:金峯山経塚出土紺紙金字経~藤原道長直筆の経巻~

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2024年(令和6年)8月27日、 藤原道長 と曾孫の師通直筆の「金峯山経塚出土紺紙金字経」(きんぷせんきょうづかしゅつどこんしきんじきょう)が国宝に指定されました。 山上ヶ岳の大峯山寺周辺の金峯山経塚から出土したもので、国宝に指定されたのは 金峯神社 の79紙と 金峯山寺 の200紙。 ★藤原道長筆の法華経巻一、四、五、六、七、八断簡(巻五、六に寛弘4年の奥書)。 ★藤原道長筆の観普賢経断簡(寛弘4年の奥書) ★藤原道長筆の阿弥陀経断簡(寛弘4年の奥書) ★藤原師通筆の法華経巻一、二、四、五、六、七、八断簡 ★藤原師通筆の無量義経断簡 ★藤原師通筆の観普賢経断簡 藤原道長筆 観普賢経巻末 (文化庁資料より) 文化庁が発表した文化審議会の答申の資料の中にあったもので、長徳四年奥書があります。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 藤原道長 は、1007年(寛弘4年)に金峯山に参詣して、「金銅藤原道長経筒」に自筆の法華経など15巻を収めて埋納。 経筒の銘文から、法華経等10巻は998年(長徳4年)に書写し、残る5巻は寛弘4年に書写したものであることが判っています。 道長の曾孫・師通は、1088年(寛治2年)に金峯山に詣でて自筆の法華経等12巻を埋経しました。 金峰神社 道長 が経を収めた「金銅藤原道長経筒」は、 金峯神社 の所蔵で国宝に指定されています(京都国立博物館に寄託)。 📎金銅藤原道長経筒と道長の願い 金峯山寺 金峯山寺 は、修験道の開祖・役行者(役小角)が、山上ヶ岳と吉野山に蔵王権現を祀ったことに始まります。 現在は山上ヶ岳(現在の大峯山寺)と吉野山(現在の金峯山寺)は別個の寺院になっていますが、近世までは「山上の蔵王堂」・「山下の蔵王堂」と呼ばれ、金峯山寺とは本来2つの蔵王堂とその関連施設の総称でした。 金峯山経塚出土紺紙金字経の金峯山寺分の大半は、2015年(平成27年)に金峯山寺本坊で発見されたもの。 📎藤原道長の御嶽詣~彰子の男児出産を願っての金峯山参詣か?~ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

藤原道長の御嶽詣~彰子の男児出産を願っての金峯山参詣か?~

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1007年(寛弘4年)8月11日、 藤原道長 は自ら書写した経を吉野の金峯山(山上の蔵王堂)に埋納しています。 当時、道長は様々な病に苦しんでいたようですので、厄除とも考えられますが・・・ 999年(長保元年)に12歳で 一条天皇 の女御として入内して中宮となった娘の 彰子 は20歳になっていました。 彰子の皇子出産を願って? 一条天皇 には彰子が入内した年に 藤原定子 が生んだ第一皇子の 敦康親王 がいましたが、定子が崩御した後は 彰子 が養母となって育てていました。 敦康親王 は彰子に愛情をもって養育され、賢い少年に成長します。 道長 も後見役となり、 源倫子 (彰子の母)も育児に関わっていたようですが、彰子が皇子を産むことができなかった場合に備えて奉仕していたようです。 敦康親王 を簡単に東宮(皇太子)にするわけにはいかない道長は、彰子の皇子出産を願って金峯山参詣(御嶽詣)を行ったのかもしれません。 ただ・・・藤原道長が埋納した「金銅藤原道長経筒」に記された願文には・・・ 📎金銅藤原道長経筒と道長の願い ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~金峯山は弥勒の浄土~ 吉野山 金峯山は、 吉野山 から山上ヶ岳に至る地。 道長 の時代は、末法思想が流行しはじめていた時代でした。 末法思想は、仏教の教えが廃れ、救われることのない世がくるというもの。 そういう思想の中で広がったのが、弥勒菩薩が現れて救ってくれるという弥勒信仰。 平安時代、金峯山は弥勒の浄土とされていたようです。 また、金峯山寺の本尊・蔵王権現は、釈迦如来・千手観音・弥勒菩薩の三尊が合体したものとされています。 道長 は弥勒菩薩を信仰していたといわれ、弥勒菩薩を本尊とする 園城寺 (三井寺)の 金堂 には、道長が奉納したと伝えられる弥勒菩薩像も安置されています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~道長の金峯山参詣~ 道長 は寛弘4年閏5月から室町の源高雅の邸宅で御嶽精進を始めます。 御嶽精進とは、金峯山参詣の前に50日から100日の間、身を清めること。 この間、巨大な磨崖仏(弥勒菩薩)を本尊とする笠置寺や 祇園社 ・ 賀茂社 にも参詣しているようです。 そして、8月2日、長男・ 頼通 や 源俊賢 らとともに金峯山を参拝するため京都を出発。