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鹿苑寺の舎利殿(金閣)と鹿王院の舎利殿

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鹿苑寺舎利殿 鹿苑寺 は、足利義満が営んだ山荘「北山殿」をはじまりとしています。 1408年(応永15年)、義満が亡くなると 夢窓国師 を開山とする禅寺となりました。 金箔が貼られた舎利殿が 「金閣」 と呼ばれることから、寺院全体が「金閣寺」と呼ばれています。 鹿王院舎利殿 嵯峨嵐山にある 鹿王院 は足利義満が創建した寺。 鹿苑寺 の舎利殿( 金閣 )は、鹿王院の舎利殿を参考に建てられたのだとか。 参考までに、鹿王院の 舎利殿 に納められているのは、鎌倉幕府三代将軍の 源実朝 が宋から請来したと伝えられる仏牙舎利。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

八坂神社の神輿~祇園祭で渡御する三基の神輿~

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八坂神社 の祭神は素戔嗚尊・櫛稲田姫命・八柱御子神。 中央の六角形の神輿が素戔嗚尊(スサノヲノミコト)。 右の四角形の神輿が后の櫛稲田姫命(クシイナダヒメノミコト)。 左の八角形の神輿が素戔嗚尊と櫛稲田姫命の八人の子八柱御子神(ヤハシラノミコガミ)。 祇園祭 では、7月17日の夕刻に三基の神輿が八坂神社を出御。 7月24日まで 四条の御旅所 に留まります。 八坂神社 八坂神社 は、明治の神仏分離まで祇園精舎の守護神とされる牛頭天王を祭神としていたことから、「祇園神社」「祇園社」「祇園感神院」などと呼ばれていました。 京都三大祭の一つ 祇園祭 は八坂神社の祭礼です。

因幡堂平等寺~一条天皇が信仰した寺と猫のお守り~

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平等寺 は、因幡堂・因幡薬師の名で親しまれている寺。 一条天皇 が勅願寺とした薬師如来の霊場です。 頭痛に悩んでいた 後白河上皇 は、因幡薬師のお告げで頭痛を治すことができたのだとか。 2022年2月22日、因幡堂で授与されることになったのは「六猫守り」。 六猫(むびょう)=無病なのだとか。 参考までに、因幡薬師を信仰した 一条天皇 は愛猫家。 一条天皇の中宮・ 藤原定子 に仕えた 清少納言 は『枕草子』に、一条天皇の飼い猫だった 「命婦の御許」 (みょうぶのおとど)のことを書いています。 因幡堂平等寺 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

日本に中国の禅を伝えた蘭渓道隆

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我が国初の禅の専門道場・ 建長寺 を開いた蘭渓道隆は、中国宋の禅僧。 宋で修行していた 泉涌寺 の月翁智鏡との縁から、1246年(寛元4年)に宋から商船に乗って日本(筑前博多)に渡ってきました。 博多の円覚寺は道隆が開いたのだと伝わります(現在は聖福寺塔頭)。 来日後、円覚寺に留まって布教活動をしていました。 泉涌寺 翌年、月翁智鏡に招かれて上洛。 泉涌寺 の来迎院に滞在しますが、旧仏教で固められた京都には活躍の場はなく、智鏡の勧めで鎌倉へ下ります。 壽福寺 鎌倉の地を踏んだのは、1248年(宝治2年)頃のことといわれています。 仮の住まいにしたのが、我が国臨済宗の開祖 栄西 が開いた 壽福寺 でした。 常楽寺 やがて、 壽福寺 の道隆のことを知った五代執権 北条時頼 は、道隆を 常楽寺 に移して禅の道場を開きます。 そのため、 常楽寺 は「建長寺の根本」といわれています。 建長寺 1253年(建長5年)、 時頼 は 建長寺 を創建。 道隆は開山に迎えられました。 修禅寺 道隆は、元(中国)の密偵との疑いをかけられ伊豆に逃れた時期もあります。 そのときに住したのが 修禅寺 でした。 修禅寺 は真言宗の寺でしたが道隆が住したことで臨済宗に改宗されました。 (※のちに 韮山城 主の 北条早雲 が曹洞宗の寺として再興。) その後、 壽福寺 、禅興寺(現在は支院の 明月院 のみ。)などに住し、京都 建仁寺 にも住しました。 明月院 アジサイ で知られる 明月院 は、道隆が開いた禅興寺の支院。 禅興寺は、八代執権 北条時宗 が父時頼の最明寺を再興して創建しました。 建仁寺 建仁寺 は、 源頼家 の援助によって創建された京都最古の禅寺。 開山は 栄西 。 建仁寺西来院 建仁寺 の塔頭 西来院 は、建仁寺十一世となった道隆が開いた寺。 東光寺 叡山 僧徒の反抗にあって甲斐に流されたこともありました。 東光寺 の庭園は道隆の作庭と伝えられています。 建長寺西来庵 1278年(弘安元年)4月、 建長寺 に戻った道隆は、その年の7月24日に没しています。 建

一帝二后と藤原定子の崩御

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1000年(長保2年)2月25日、前年 一条天皇 に入内した 藤原道長 の長女・ 彰子 は皇后となります。 一条天皇の皇后には、彰子より先に兄道隆の娘・ 定子 がいましたが、 彰子 が皇后となったことで、定子は皇后宮、彰子は中宮と呼ばれるように。   ここに、一人の天皇が二人の皇后を持つ一帝二后が成立し、以後、皇后の定員は2名となったのだとか・・・ この年の12月15日、皇后宮・ 定子 は第二皇女・媄子内親王を出産しますが、翌16日に崩御(24歳)。 鳥辺野に葬られました。 前年に誕生した第一皇子の 敦康親王 は、 藤原行成 の奏上により 彰子 が養母となり、生まれたばかりの媄子内親王は、 藤原詮子 の養女として育てられています。 定子の妹・ 御匣殿 が脩子内親王・媄子内親王・ 敦康親王 の養育を託されていたとも。 定子鳥戸野陵 1000年(長保2年)12月16日に崩御した 一条天皇 の皇后・ 藤原定子 が葬られたのは 鳥戸野陵 。 本人の希望により土葬されています。 定子 はこの歌を遺していました。 「煙とも雲ともならぬ身なれども草葉の露をそれとながめよ」 (煙とも雲ともならない我が身ですが、草の葉の露を我が身と思って下さい) 定子 の死から11年後の1011年(寛弘8年)6月22日、 一条天皇 が崩御します。 一条天皇 は死の3日前に 「露の身の仮の宿りに君を置きて家を出でぬることぞ悲しき」 (露のようにはかない身のかりそめに宿にあなたを残して出家してしまう事は悲しい) と詠んだのだそうです。 この歌の君とは、中宮の 藤原彰子 のことと考えられますが、 定子 のこととする説もあります。 定子の陵墓からは 京都タワー が見えます。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆