1000年(長保2年)2月25日、前年一条天皇に入内した藤原道長の長女・彰子は皇后となります。
一条天皇の皇后には、彰子より先に兄道隆の娘・定子がいましたが、彰子が皇后となったことで、定子は皇后宮、彰子は中宮と呼ばれるように。
ここに、一人の天皇が二人の皇后を持つ一帝二后が成立し、以後、皇后の定員は2名となったのだとか・・・
この年の12月15日、皇后宮・定子は第二皇女・媄子内親王を出産しますが、翌16日に崩御(24歳)。
鳥辺野に葬られました。
前年に誕生した第一皇子の敦康親王は、藤原行成の奏上により彰子が養母となり、生まれたばかりの媄子内親王は、藤原詮子の養女として育てられています。
定子の妹・御匣殿が脩子内親王・媄子内親王・敦康親王の養育を託されていたとも。
1000年(長保2年)12月16日に崩御した一条天皇の皇后・藤原定子が葬られたのは鳥戸野陵。
本人の希望により土葬されています。
定子はこの歌を遺していました。
「煙とも雲ともならぬ身なれども草葉の露をそれとながめよ」
(煙とも雲ともならない我が身ですが、草の葉の露を我が身と思って下さい)
定子の死から11年後の1011年(寛弘8年)6月22日、一条天皇が崩御します。
一条天皇は死の3日前に
「露の身の仮の宿りに君を置きて家を出でぬることぞ悲しき」
(露のようにはかない身のかりそめに宿にあなたを残して出家してしまう事は悲しい)
と詠んだのだそうです。
この歌の君とは、中宮の藤原彰子のことと考えられますが、定子のこととする説もあります。
定子の陵墓からは京都タワーが見えます。
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