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山鉾巡行の起源となった無骨の山鉾と藤原道長~祇園祭~

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999年(長保元年)の祇園御霊会でのこと。 雑芸者の無骨(むこつ)という法師が、大嘗祭で使われる標山に似せた作山を製作し、祇園八坂社の社頭で引き回しました。 それを聞いた 藤原道長 は驚いて、無骨の行為を止めさせ、検非違使に捕らえるよう命じましたが、逃げられてしまったようです。 そして・・・ その夜、内裏が全焼し、一条天皇は母后・藤原詮子の御在所に遷御しています。 この火災は、疫病退散を願って行った無骨の行為を禁止したことに対する祇園天神(牛頭天王)の怒りによるもの噂されたのだとか。 無骨​の本名は頼信。 柔らかな身のこなしをする技芸から無骨と呼ばれ、前年から人気を集めていたそうです。 無骨の山鉾が祇園祭の山鉾巡行の起源といわれています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

地獄の閻魔大王と救済の観音菩薩と極楽浄土の阿弥陀如来~鎌倉の長谷~

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圓應寺 鎌倉西方の境界・長谷には墓地が置かれ、閻魔大王をはじめとする死後に出会う十王を祀る新居閻魔堂がありました。 新居閻魔堂は1250年(建長2年)に建立されたと伝えられ、 材木座 に移された後、山ノ内に移されました。 現在は、 建長寺 の塔頭の一つ 圓應寺 となっています。 圓應寺閻魔大王像 圓應寺 の 閻魔大王像 は江戸時代の作(重要文化財)。 1月16日と8月16日は 閻魔縁日 。 地獄のふたが開き、全ての餓鬼が解放される日。 昔から「新居の閻魔さま」と言われてきました。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 新居閻魔堂( 圓應寺 )は、長谷に置かれた墓地の鎮魂のために建てられたともいわれます。 そして、 長谷寺 ・ 鎌倉大仏 とともに浄土信仰に基づく情景を表した寺院群の一つだったともいわれています。 人々を救済する観世音菩薩 長谷寺 長谷寺 の本尊は 十一面観音 。 極楽浄土へ導く阿弥陀如来 鎌倉大仏 鎌倉大仏 は阿弥陀如来。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 近年では、 極楽寺 の 忍性 と 長谷寺 との関係が注目されているようです。 忍性は西大寺流律宗の僧。 奈良の長谷寺 は、忍性が入った奈良の西大寺と深い関係にあったようです。 忍性 は、 永福寺 ・ 明王院 ・ 鎌倉大仏 の別当にもなっています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

鎌倉検定~石清水八幡宮と鶴岡八幡宮~

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石清水八幡宮 石清水八幡宮 は、859年(貞観元年)、宇佐八幡宮に参籠した行教が 「われは都の近くに移座して国家を鎮護したい」 という託宣を受けて石清水男山に創建したことに始まるのだと伝えられています。 京都の 裏鬼門 を守護する神社として尊崇され、源氏は氏神として信仰しました。 伝説によると・・・ 源頼義 が 石清水八幡宮 に参籠したとき、社殿で三寸の霊剣を賜った夢を見ます。 夢から覚めると枕元には小剣が置かれていました。 この霊夢を見た月に妻が懐妊し、誕生したのが 源義家 でした。 義家 の生年は、はっきりとしませんが、1039年(長暦3年)という説が有力です。 その後、7歳となった 義家 は、 石清水八幡宮 の神前で元服し「八幡太郎」と号したとのだいいます。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 由比若宮 石清水八幡宮 を深く信仰していた 源頼義 は、1063年(康平6年)、前九年を平定した後、鎌倉の由比郷に 石清水八幡宮 を勧請し、社殿を創建しました( 由比若宮 )。 1081年(永保元年)には、 義家 が修理を加えたと伝えられています。 これが、 鶴岡八幡宮 の始まりです。 鶴岡八幡宮 1180年(治承4年)8月、 平治の乱 後、伊豆国に流されていた 源頼朝 が 源氏再興の挙兵 をします。 10月に父祖ゆかりの鎌倉を本拠とした 頼朝 は、 由比若宮 を小林郷に遷座。 武家の都市づくりの中心に据えました。 1191年(建久2年)に焼失してしまいますが、頼朝はすぐさま再建にとりかかり、改めて 石清水八幡宮 の神霊を迎えています。

鎌倉検定~源氏と鎌倉の関係~

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1028年(長元元年)、関東では平忠常が反乱を起こします。 この乱を鎮圧したのが河内源氏の祖・源頼信とその嫡子・ 頼義 。 この時代の鎌倉は、平直方が本拠としていましたが・・・ 頼義 の武勇に感じ入った直方は、娘を頼義に嫁がせます。 そして、鎌倉の大蔵邸を寄進したことで鎌倉は河内源氏の東国支配の拠点となりました。 由比若宮 由比若宮 は、1063年(康平6年)に前九年の役を平定した 源頼義 が創建した社。 出征する際、頼義は源氏の氏神である 石清水八幡宮 に戦勝を祈願。 その願いがかなえられたことを感謝して鎌倉の由比郷に 石清水八幡宮 を勧請したのだといわれています。 甘縄神明神社 甘縄神明神社 は、 源頼義 が祈願して子の 義家 を授かったと伝えられる社。 義家は、後三年合戦後、朝廷から恩賞が出なかったため、従軍した坂東武者たちに私財から恩賞を与えて武神と称えられました。 直方の娘は、義家の他、義綱、義光を産んでいます。 義家は 石清水八幡宮 で元服したことから「八幡太郎」、義綱は 賀茂神社 で元服したので「賀茂次郎」、義光は 新羅明神 で元服したので「新羅三郎」と呼ばれました。 八雲神社 大町の 八雲神社 は、 新羅三郎義光 が兄八幡太郎義家の助勢のため奥州に赴く途中で鎌倉に立ち寄った際、疫病が流行っていたため、京都の祇園八坂社(現在の 八坂神社 )の祭神を勧請したことに始まるのだといいます。 壽福寺 壽福寺 は 源義朝 の鎌倉之楯の跡に建てられた寺。 義朝はここを拠点に勢力の拡大を図り、 鎌倉権五郎景政 が開墾した 大庭御厨 の支配権に介入しています。 1180年(治承4年)、鎌倉に入った 源頼朝 は義朝の旧跡に御所を置こうと考えていたようですが、土地が狭く、 岡崎義実 が建てた亡き父の御堂もあったことから、大倉(大蔵)の地を選んだのだといいます。 大倉(大蔵)には先祖の頼義館があったことも理由の一つのようです。

紫式部の旅~越前下向の行列が再現されます~

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996年(長徳2年)、越前国司となった父の 藤原為時 とともに越前国府(武生)へ下った 紫式部 。 一行は、 逢坂の関 を越えて大津に入り、琵琶湖を渡って 塩津浜 に上陸。 塩津山 (深坂峠)を越えて越前国の敦賀に入り、 木ノ芽峠 を越えて鹿蒜郷に至ったのだと伝えられています。 10月18~20日に 紫式部 の 越前下向 を再現する「紫式部の旅」が実施されます。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 10月18日(金曜) 午前:宇治上神社で出立の儀 (宇治上神社から宇治公園まで行列) 午後:石山寺参詣・船出の儀(琵琶湖畔) (行列:石山寺境内) 宇治上神社 (宇治市) 宇治上神社 は「古都京都の文化財」の構成資産。 拝殿 や 本殿 は国宝です。 『源氏物語』 の 宇治十帖 ゆかりの神社。 石山寺 (大津市) 石山寺 は、 紫式部 が 『源氏物語』 を書き始めたという寺。 藤原道綱母 の『蜻蛉日記』・ 赤染衛門 の『赤染衛門集』・ 和泉式部 は『和泉式部日記』・ 菅原孝標女 の『更級日記』にも登場します。 清少納言 は『枕草子』に「寺は石山寺・仏は如意輪観音」と綴りました。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 10月19日(土) 午前:気比神宮で境迎えの儀 (行列:氣比神宮境内) 午後:鹿蒜神社参詣 (行列:今庄宿) 気比神宮 (敦賀市) 気比神宮 は北陸道の総鎮守。 越前国の一宮。 大河ドラマ「光る君へ」に登場した 松原客館 は 気比神宮 の神官が管理していたのだといいます。 鹿蒜神社 (南越前町) 鹿蒜神社 は、 木ノ芽峠 を越えた 紫式部 が参詣したという社。 今庄宿 (南越前町) 今庄宿は北陸の玄関口として栄えた宿場町。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 10月20日(日) 午後:越前市役所庁舎前広場で着任の儀 (行列:総社大神宮から越前市役所) 総社大神宮 (越前市) 総社大神宮 は、着任した越前国司が参拝した社。 藤原為時 も参拝したはず。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆