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光則寺の清澄沢~鎌倉あじさい物語~

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安房郡天津小湊町で誕生した 日蓮 は、 比叡山 や 高野山 などで学び、法華経が真の仏教の教えであるとして、1253年(建長5年)4月28日、法華宗を開きました。 その地が生まれ故郷の安房国。 光則寺 の カイドウ の下に咲くアジサイ「 清澄沢」は、日蓮が 法華の教えを説いた 清澄山原産のヤマアジサイです。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

観音山霊験記~長谷寺あじさい物語~

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昔、相州鎌倉長谷の村に観音山在り 極楽西方浄土と伝う地に華を咲かせたいと願う老師は、ある夜、霊夢を見た 一人の童女が観音山に向いて、この山に花を咲かせ給えと祈祷すると・・・ 空に七色の雲が湧き出で、やがて山神が現れた 地の神は長い鉾にて地を浄め、雨の神は恵みの雨を降らせ、風の神は袋より花を吹き出させた たちまち観音山は紫陽花の花が咲き誇り、極楽浄土のごとき七色の華で埋め尽くされた 目覚めた老師が山を眺めると、確かに絢爛な華の山になっていた ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

山内首藤俊通の墓~北鎌倉:明月院~

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山内首藤俊通は、相模国鎌倉郡 山内荘 を本拠とした武将。 源義朝 に従った 平治の乱 で討死。 俊通の墓 は京都に建てられていましたが、2023年(令和5年)、 明月院 に改葬されました。 明月院 明月院 は俊通の子・経俊が父の菩提を弔うために建てた明月庵を前身としています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

一条天皇と内裏焼失と一条院

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一条院跡 一条院 は 藤原詮子 に献上された邸宅。 999年(長保元年)、 内裏 を焼かれてしまった 一条天皇 が里内裏としました。 里内裏は内裏の焼失にともなう仮の皇居。 1000年(長保2年)に内裏が再建されると、10月11日に還御しますが・・・ 1001年(長保3年)11月18日、再び内裏が焼失。 11月22日、再び 一条院 に遷御しました。 1003年(長保5年)、内裏が再建されると、10月8日に還御しますが・・・ 1005年(寛弘2年)11月15日、またも内裏が焼失。 この時は、いったん 東三条殿 (東三条院)に遷った後、1006年(寛弘3年)3月4日、 一条院 に遷御。 同年には内裏が再建されますが、還御しなかったのだといいます(一時還御しているという説も。)。 1009年(寛弘6年)10月5日、今度は 一条院 が焼失。 すぐに一条院の再建が始まり、1010年(寛弘7年)11月28日、 枇杷殿 から再建された一条院に遷御しています。 一条天皇 の中宮・ 藤原彰子 に仕えた紫式部は 一条院 に出仕していたようです。 一条天皇 円融寺北陵 1011年(寛弘8年)6月22日、 一条天皇 は 一条院 の中殿で崩御。 一条院では、南殿を 紫宸殿 、中殿を 清涼殿 と呼んでいたそうです。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

雨でも青い海と白い雲~鎌倉あいさい物語~

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鎌倉の6月は、雨でも青い海と白い雲。 明月院の青い海 浄妙寺の白い雲 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

蓮華寺で自刃した北条仲時~六波羅陥落と鎌倉幕府滅亡~

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北条仲時と従士の墓 (米原市:蓮華寺) 北条仲時は、初代執権 北条時政 から数えて六代の孫。 1330年(元徳2年)、上洛して 六波羅探題 北方となりましたが・・・ 1333年(元弘3年)5月7日、幕府に反旗を翻した 足利尊氏 に 六波羅探題 を落とされてしまいます。 東国を目指して中山道を下った仲時でしたが、近江国番場宿で行く手を阻まれ 蓮華寺 に辿り着いたのだといいます。 5月9日、蓮華寺で従士432名とともに自刃。 仲時の自刃から15日後の5月22日、 源頼朝 と 北条時政 が創始した鎌倉幕府が滅亡します。 蓮華寺 蓮華寺 は、鎌倉の 光明寺 を開いた然阿良忠の弟子・一向を招いて再建された寺。 蓮華寺という名は 光明寺 の旧名。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆