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紫式部の漢詩の才能

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『紫式部日記』によると・・・ 子どもの頃、弟の 藤原惟規 が漢詩を読んでいるときに、 紫式部 もそばで聞き習っていたのだそうです。 惟規 は覚えるのも遅く、忘れてしまったりしていましたが、 紫式部 は不思議なくらいに早く理解していたようです。 そのため、父の 藤原為時 は、 「この子が男でなかったことは、幸せがなかった」 と嘆いていたのだとか。 漢学・漢詩に秀でていた 為時 は、のちに越前守になりますが、 一条天皇 に漢詩を送って実現したという逸話があります。 📎一条天皇に漢詩を奏上して越前守となった藤原為時 また、中宮・ 藤原彰子 に仕えることとなる 紫式部 は、 一条天皇 から漢学の知識を評価されています。 📎中宮彰子に新楽府を進講する紫式部 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

紫式部の邸宅址の碑~蘆山寺~

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紫式部邸址碑 (蘆山寺) 幼い頃に母( 藤原為信女 )を亡くした 紫式部 。 曾祖父の藤原兼輔が建てた旧家で父 藤原為時 に育てられ、 藤原宣孝 との婚姻生活を送り、一人娘・ 賢子 (大弐三位)を育てました。 ただ、宣孝との結婚は、宣孝が通ってくる 「通い婚」 。 浮気性の 宣孝 が来なくなり、生まれたばかりの 賢子 と寂しい思いをしたこともあったようです。 宣孝の死後に書き始めた 『源氏物語』 を執筆したのもこの地でした。 蘆山寺 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

紫式部が生まれた紫野~雲林院と真珠庵~

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雲林院 雲林院 は淳和天皇(在位・823ー833)の離宮・紫野院として造営されたのが始まり。 現在は 大徳寺 の境外塔頭となっていますが、大徳寺は衰退してしまった雲林院の敷地内に建てられた寺です。 雲林院のある地は「紫野」。 『源氏物語』 の作者・ 紫式部 は紫野で生まれ育ったのだとか。 真珠庵 かつては、 雲林院 の敷地だった 大徳寺 の塔頭 真珠庵 には「紫式部産湯の井」があるそうです。 大徳寺 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

位階と袍(上着)の色~紫式部:光る君へ~

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官人には一位から九位までの位階があり、各位は上下に分割されていました。 貴族と呼ばれるのは五位以上の者。 そして、「位袍」(いほう)という制度があって、正装の袍(上着)は位階によって色分けされていました。 また、天皇・皇族などの袍(上着)の色は「禁色」(きんじき)と呼ばれ、臣下の者が用いることは禁じられていました。 紫式部 の時代、臣下で一番高位の人は濃い紫。 位階が下がるにしたがって薄紫や赤の袍となり、六位以下になると青や緑だったようです。 『源氏物語』 ~少女の巻~では、 光源氏 の息子・ 夕霧 が元服して 大学寮 に入ることとなった際、光源氏はわざと低い官位(六位)を与えて学問に励ませています。 夕霧 の袍の色は浅葱色だったようです。 紫の 袍 藤原道長 や 光源氏 は、臣下の最上位なので紫。 御五十日の祝いの宵、 若宮に餅を供する道長 (紫式部日記絵巻) 1008年(寛弘5年)9月11日、 紫式部 が仕えていた中宮・ 藤原彰子 が 一条天皇 の第二皇子・敦成親王(のちの 後一条天皇 )を生みます。 『紫式部日記』によると・・・ 11月1日、 土御門殿 では 藤原道長 主催の「五十日の祝い」が行われました。 そのとき少輔の乳母( 藤原豊子 の娘)は「禁色」の着用を許されています。 伝源頼朝像 (神護寺) 参考までに・・・ 神護寺 の源頼朝像の袍は黒。 源頼朝 の最終位階は正二位。 紫式部 の時代だと紫になるのかもしれませんが、摂関の時代が終わると、上位の者の色は黒に統一されていったようです。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆