投稿

朱雀院が出家した山寺のモデルは仁和寺~源氏物語~

イメージ
  光源氏 の異母兄・ 朱雀帝 は、光源氏の子・ 冷泉帝 に譲位した後、 朧月夜 と 朱雀院 で暮らしていましたが・・・ 光源氏 の 六条院 への行幸後、病に伏してしまいます。 そして、西山に建立していた山寺に籠って出家。 山寺のモデルとなったのは 仁和寺 なのだといいます。 仁和寺 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

源倫子からの贈り物:菊の着せ綿~紫式部日記~

イメージ
1008年(寛弘5年)9月9日、すでに盛りを過ぎていた 紫式部 に「老いをぬぐい去る」という「菊の着せ綿」が 藤原道長 の北の方( 源倫子 )から贈られました。 紫式部 感激した 紫式部 は「菊の露 わかゆばかりに 袖ふれて 花のあるじに 千代はゆづらむ」とお礼の歌を詠みました。 (この菊の露に私ごときはほんのちょっと若返る程度に袖をふれるだけにとどめまして、この露がもたらす千年もの歳は、花の持主であるあなた様にお譲り申しましょう) しかし、その時はすでに 倫子 が自分の部屋に帰ってしまったので「菊の着せ綿」は手元にとどめることにしたのだとか。 菊酒をいただく 旧暦の9月9日は重陽の節会。 菊の花の盛りの時なので、菊の花を観賞したり菊酒を飲んだりしたため「菊花の宴」とも呼ばれました。 ただ、1008年(寛弘5年)の重陽の節会は中宮・ 藤原彰子 の出産が間近だったため行われなかったようです。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

平安時代に行われていた打毬と源氏物語

イメージ
(風俗博物館パネル) 打毬 (だきゅう)は、平安時代に端午の節会の際に行われた宮中行事で、乗馬した競技者が左右に分かれ、毬を毬門(ゴール)に入れる競技。 822年(弘仁13年)正月、渤海国の国使が 豊楽殿 で打毬を行ったという記録があることから渤海国を通じて日本に伝わったとする説が有力。 紫式部 の 『源氏物語』 ~蛍の巻~では・・・ 光源氏 が 六条院 の 花散里 の御殿「夏の町」の馬場で「手結」(てつがい)を催しています。 夕霧 が武徳殿での催しの後に行ったもので、 紫の上 の「南の町」にも続いていたため多くの女房が見物。 勝負のたびに「打毬楽」(たぎゅうらく)や「落蹲」(らくそん)なども奏でられました。 この「手結」が「打毬」なのではないかとする説があります。 打毬楽の装束 (風俗博物館パネル) ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

須賀神社~徳川家康 小山評定の地~

イメージ
須賀神社 は、940年(天慶3年)に藤原秀郷が京都の 祇園社 を勧請して創建した社。 徳川家康 が小山評定を開いたことでも知られています。 徳川家康小山評定の碑 1600年(慶長5年)、上杉景勝を討伐の途中で小山に陣を布いた 徳川家康 は、 石田三成 が挙兵したことを知ると、 須賀神社 境内で軍議を開き(小山評定)、参籠して 関が原 の戦勝を祈願したのだと伝えられています。 須賀神社 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆