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吉野水分神社~清少納言・源義経・豊臣秀吉・豊臣秀頼ゆかりの社~

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吉野水分神社 (よしのみくまりじんじゃ)は、水を司る天之水分大神(あめのみくまりのおおかみ)を主祭神とする神社。 清少納言 が『枕草子』の中で素晴らしい神の一つに挙げた社。 金峯山寺の僧兵に追われた源義経が逃げ延びた場所とも伝えられています。 楼門 (重要文化財) 豊臣秀頼寄進の湯釜 豊臣秀頼は、父の秀吉がこの地を訪れて授かったのだとか。 本殿 (重要文化財) 幣殿 (重要文化財) 豊臣秀頼寄進の神輿 幣殿に置かれている八角八棟造の神輿は、1604年(慶長9年)に豊臣秀頼が寄進したもの(奈良県指定文化財)。 ??? 拝殿 (重要文化財) 吉野水分神社 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

閑院跡~藤原氏の邸宅・後鳥羽上皇の里内裏・豊臣秀吉の妙顕寺城~

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閑院 は、平安初期の藤原冬嗣の邸宅が始まり。 平安後期には、高倉天皇が里内裏として使用し、子の 後鳥羽天皇 は閑院で皇位を承継しています。 西福寺は、閑院跡に建立された真宗大谷派の寺院。 西福寺の山門脇には、「豊臣秀吉妙顕寺城跡」の碑。 妙顕寺は、鎌倉後期、閑院跡に日像が建立した京都で初めての日蓮宗寺院。 1583年(天正11年)、豊臣秀吉は妙顕寺を小川寺ノ内に移転させて二条新邸を築き、 聚楽第 が完成するまでの京都の政庁としました。 その後、慶長年間に西福寺が建立されます。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

淀殿とお江(崇源院)ゆかりの養源院~伏見城の戦いの血天井~

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養源院 は、 淀殿 が父・浅井長政と祖父・浅井久政らの追善のため建立した寺。 妹の 崇源院 は、大坂の陣で自害した 淀殿 と秀頼の供養を営んでいます。 間もなく落雷で焼失してしまいますが、 崇源院 が 伏見城 の遺構を用いて再興。 本堂の天井は、 伏見城の戦い で自刃した兵士らの血で染まった廊下を使用しているのだといいます(血天井)。 血天井は、勝林院の塔頭宝泉院・正伝寺・源光庵・瑞雲院・宇治市の興聖寺にも伝えられているようです。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

三河武士の鑑・鳥居元忠~伏見城の戦い~

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1600年(慶長5年)、 徳川家康 の上杉討伐の際、 伏見城 を任されたのは 鳥居元忠 でした。 家康が出陣すると、 石田三成 らが挙兵し、 伏見城 を攻撃。 元忠 は籠城して戦って討死します( 伏見城の戦い )。 初めから死を覚悟して 伏見城 に残って戦った元忠は、三河武士の鑑と称されました。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

平安宮の承香殿~源氏物語ゆかりの地~

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承香殿 は、皇后・中宮・女御などが居住した平安宮内裏の殿舎の一つ。 弘徽殿 についで格式の高い殿舎とされ・・・ 円融天皇 女御・尊子内親王 一条天皇 女御・藤原元子 などが賜りました。 紫式部 の 『源氏物語』 では、 朱雀院 の妃・承香殿女御が今上帝を産んでいる。 平安宮・大内裏 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

平安宮の弘徽殿~源氏物語ゆかりの地~

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弘徽殿 は、皇后・中宮・女御などが居住した 平安宮 内裏の殿舎の一つ。 円融天皇 中宮・藤原遵子 花山天皇 女御・ 藤原忯子 一条天皇 女御・藤原義子 後朱雀天皇 皇后・禎子内親王 などが賜りました。 紫式部 の 『源氏物語』 では、朱雀帝の母・ 弘徽殿女御 や、その妹の 朧月夜 が居住。 平安宮・大内裏 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆