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逢坂の関~源氏物語ゆかりの関所~

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逢坂の関 (おうさかのせき)は、山城国と近江国の国境に置かれた関所。 赤染衛門 ・ 清少納言 ・ 和泉式部 ・ 藤原道綱の母 などが 逢坂の関 を通って 石山寺 を参拝していたようです。 紫式部 の 『源氏物語』 では、 石山寺 参詣の途中の 光源氏 が任期を終えて妻の空蝉ととも帰京する常陸介(元伊予介)一行と出逢っています。 ただ関があった場所の詳細は不明らしい。 紫式部 は父の 藤原為時 の越前国赴任に同行しました。 京を出発した一行は 逢坂の関 を越えて 打出浜 から船出したのだそうです。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

光源氏のモデルの一人・在原行平の伝説~源氏物語・須磨~

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松風村雨堂 在原行平は、光源氏のモデルの一人とされる平安時代前期の公卿。 松風村雨堂 は、須磨に蟄居していた行平が都に帰った後、愛人だった松風と村雨が行平の無事を祈って建てた庵の跡。 月見の松 (須磨離宮公園) 行平は、しばしば裏山で月見をしていたため、後世、裏山は月見山と呼ばれるようになったのだという。 須磨離宮公園は、月見山にあった皇室の別荘・武庫離宮の跡地で、園内には在原行平の 月見の松碑 が建てられている。 松風村雨の墓 行平が信仰した 多井畑厄除八幡宮 の西にある二基の五輪塔は、在原行平の愛人だった 松風と村雨の墓 。 源氏の間 (大津市:石山寺) 石山寺 の 源氏の間 は、 紫式部 が 『源氏物語』 を書き始めたという所。 蟄居を余儀なくされた在原行平の須磨での日々を重ねあわせながら、「須磨」・「明石」の両巻から書き始めたのだという。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

石山寺の源氏の間~紫式部が『源氏物語』を書き始めた部屋~

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源氏の間 石山寺 の本堂にある 「源氏の間」 は、 紫式部 が 『源氏物語』 を書き始めた部屋。 中秋の名月が琵琶湖に映る美しい景色を見た 紫式部 。 まずは、 光源氏 のモデルの一人・在原行平の須磨での日々を重ねあわせながら、 「須磨」・「明石」 の両巻から書き始めたのだとか。 石山寺 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

長安寺~藤原道長一族が参った関寺の霊跡~

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長安寺 は、関寺の霊跡にある寺。 長和年間(1012-1017)、荒廃していた関寺の復興を 恵心僧都源信 が発願し、弟子の延鏡が遂行。 再興の資材運搬は、 清水寺 から遣わされた一頭の牛が活躍。 その牛と結縁するために 藤原道長 ・ 源倫子 ・ 藤原頼通 ・藤原教通が参ったのだという。 境内にある巨大な石塔は、牛が葬られた地に 藤原頼通 が建てたと伝えられ、牛塔と呼ばれている。 長安寺 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

大津城~石田三成が生き曝しにされた城~

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大津城 は、1586年(天正14年)、羽柴秀吉が明智光秀の坂本城を廃城とし、浅野長政に築かせた城。 その後、増田長盛→新庄直頼→京極高次と城主が変わり、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いを迎える。 関ヶ原の戦いで京極高次は東軍に与して籠城。 15000で攻めかかる西軍を7日間も釘付けにしたのだという。 戦後、 徳川家康 が入城。 西軍の将・ 石田三成 は田中吉政に捕縛された後、 大津城 の家康のもとに連行され、生き曝しにされたのだと伝えられる。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

花山法皇が隠棲した花山院菩提寺

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花山院菩提寺 は、 花山法皇 が隠棲した地。 花山法皇 が西国観音霊場三十三ヶ所の中興の祖とされることから、霊場ゆかりの地として番外寺院となっている。 西国三十三所の御詠歌は、花山法皇が巡礼の際に木の短冊にしたためた和歌なのだとか。 菩提寺の御詠歌「有馬富士ふもとの霧は海に似て 波かときけば小野の松風」も 花山法皇 が詠んだ歌。 花山院菩提寺 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆