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伊豆山神社古文書写の展示~阿野全成の花押?~

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伊豆山神社 境内にある伊豆山郷土資料館で「走湯山上常行堂への寄進状写」が特別展示されています。 内容は、治承7年7月25日に相模国「長墓郷」を走湯山上常行堂に寄進するというもの。 治承7年は寿永2年(1183年)。 差出人は座主。 そして、花押は 源頼朝 の異母弟・ 阿野全成 のものという可能性があるのだとか・・・ 特別展示は、令和5年5月9日(火曜日)まで。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

宝生寺の阿弥陀三尊像と大庭景能と源頼朝~4/29開帳:茅ヶ崎~

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室生寺 は、 大庭御厨 の懐嶋郷を本拠地とした 大庭景能 (景義)の持仏とされる阿弥陀三尊像を安置する寺。 阿弥陀堂 阿弥陀堂に安置されているのは 善光寺 式の阿弥陀三尊像。 国の重要文化財に指定されています。 阿弥陀三尊像 阿弥陀三尊像は1195年(建久6年)の造立といわれています。 1195年といえば・・・ 源頼朝 が 東大寺大仏殿 の落慶供養に参列するため上洛した年。 頼朝は鎌倉に帰ると 信濃善光寺 への参詣を計画しています。 その計画は「間もなく寒くなるから」という理由で翌春に延期されたようです・・・ 大庭景能像 神明大神宮) さて・・・ 大庭景能 ですが・・・ 曽我兄弟の仇討 事件の後の1193年(建久4年)8月24日、何らかの罪によって出家させられ、1195年(建久6年)2月9日にその罪を許されています。 上洛の供も許されました。 都から帰った頼朝が 善光寺 参詣を計画したときもそばにいたのでしょうか・・・。 東大寺 もそうですが、 善光寺 も頼朝がその再興に大きく関わっていました。 室生寺 の阿弥陀三尊像の造立と頼朝の善光寺参詣計画とは何か関係があるのかも・・・。 阿弥陀三尊像は毎年4月29日に開帳されています。 信濃善光寺 宝生寺 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

円覚寺の国宝・洪鐘

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洪鐘 円覚寺 の 国宝梵鐘 (洪鐘)は、開山の無学祖元が来日する際に、舟を守護していた竜が宿したという「宿竜池」の底から金銅を得て鋳造されたのだとか・・・ 2023年は、60年に一度の円覚寺弁財天祭礼が開催される年。 江の島 の 弁財天 と 円覚寺 の 弁財天 は夫婦弁天と呼ばれ、61年目ごと(60年に一度)に行われる 「洪鐘祭」 (おおがねまつり)で出会うことになっています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

木曽義高の首塚と鯉のぼり

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木曽塚 木曽義高は、 木曽義仲 の嫡男。 1183年(寿永2年)3月、 源頼朝 と木曽義仲の武力衝突の際、義仲が子義高を鎌倉に人質として差し出すことで和議が成立し、義高は、頼朝の娘 大姫 の許嫁という名目で鎌倉に送られてきた。 しかし・・・ 翌年正月20日、義仲が 粟津の戦い で討たれると、4月、頼朝は義高を誅殺するよう命を下します。 これを知った大姫は、義高を逃がすのですが・・・ 大姫の願いは叶わず、4月26日、義高は武蔵国の入間川で討ち取られてしまいました(享年12)。 鎌倉の 常楽寺 にある義高の首塚( 木曽塚 )には、毎年、鯉のぼりが掲げられているようです。 義高の終焉の地・入間川の 「義高の鯉のぼり」 と同じような願いが込められているのかもしれません。 義高の鯉のぼり ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

平将門の首級と神田明神

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将門塚 940年(天慶3年)2月14日、藤原秀郷と平貞盛に討たれた平将門の首級は、4月25日に京都へ送られて梟首。 その後、ゆかりの者たちが神田明神の傍に埋葬したのだといいます。 神田明神 (京都) 京都の膏薬の辻子にある 神田明神 は、平将門の首級が晒されたという地に建てられたという社。 将門の首級は、ここから江戸へ運ばれたのだといいます。 神田明神 (東京) 東京の 神田明神 は、730年(天平2年)の創建。 創建地は、武蔵国豊島郡芝崎村で、将門の首塚といわれる 将門塚 の辺りだったそうです。 1309年(延慶2年)、将門の霊は神田明神に奉祀されています。 参考までに・・・ 源頼朝 の挙兵に参じた 千葉常胤 や 上総広常 は、房総平氏・平忠常の子孫。 忠常の母は将門の娘。 北条時政 の先祖といわれる平直方は、将門を討った平貞盛の子孫。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆