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頼朝公墓前祭

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鎌倉に武家の都を創った 源頼朝 は、1199年(建久10年)1月13日に亡くなりました。 毎年、4月13日には、 墓前祭 が執り行われます。 頼朝の死因は不明ですが、『吾妻鏡』は・・・ 「1198年(建久9年)12月に 稲毛重成 が架けた 相模川の橋 の落成供養に出席し、その帰路に落馬。 それからどれほどの時を経ずして亡くなった(1212年(建暦2年)2月28日条)」 と伝えています。 頼朝は、1189年(文治5年)に 奥州征伐 の祈願所として建てた持仏堂に葬られます。 本尊は京都の 清水寺 から賜った2寸銀の 正(聖)観音像 でした。 文覚 に命じて京都で描かせた阿弥陀三尊像や、 平治の乱 で頼朝が帯びていたという源氏重代の太刀 「髭切」 (ひげきり)も納められていたのだといいます。 一周忌には 北条政子 が自らの髪の毛を除髪して刺繍したという「梵字の曼荼羅」が飾られました。 2人が崇敬した熱海の 伊豆山神社 に伝えられている 「頭髪梵字曼荼羅」 がそれだともいわれています。 源頼朝墓 持仏堂は頼朝が葬られた後は 法華堂 と呼ばれました。 今はその法華堂はありませんが、その跡地といわれる所に墓塔が建てられています。 現在の墓塔は、1779年(安永8年)に薩摩藩の島津重豪(しまづしげひで)が建てたもの。 島津氏の祖・忠久は頼朝の御落胤だという伝説が各所に残されているようです。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

賀茂祭(葵祭)の斎王行列発祥地の建つ檪谷七野神社

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檪谷七野神社(いちいだにななのじんじゃ)は、850年(嘉祥3年)、文徳天皇の皇后藤原明子の安産を祈って奈良の 春日大社 を櫟谷(いちいだに)に勧請したのが始まりとされています。 祭神は、高沙大神・春日大神・武甕槌命 他19柱 賀茂斎院は、 賀茂神社 に奉仕した斎王の御所。 その地名から紫野斎院とも呼ばれました。 4月中の酉の日に催された 賀茂祭 では、斎王は斎院を出御して一条大宮で勅使の行列と合流、 下鴨神社 と 上賀茂神社 を参拝しました。 その日は上賀茂神社の神館(かんだち)に宿泊し、翌日は、再び行列をなして斎院に帰ったのだといいます。 檪谷七野神社 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 鎌倉との繋がりを求めて!

武田信玄の墓~甲州市・恵林寺~

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武田信玄の墓 1572年(元亀3年)、遠江に侵攻して 三方ヶ原の戦い で 徳川家康 を破り、三河に進軍した 武田信玄 。 しかし・・・ 翌年、三河国の野田城を包囲中の陣中で病に倒れ、4月12日、甲府へ帰る途中の信濃国伊那谷(いなだに)で死去(53歳)。 甲府の 土屋昌続邸 に埋葬され、3年後の1576年(天正4年)4月16日、菩提寺の 恵林寺 に葬られたのだと伝えられています。 恵林寺 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

大船フラワーセンターで「日本の自生アジサイ展」が開催されます。

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開催期間中には、苗の販売や育て方講習会も行われる予定です。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 鎌倉アジサイの名所