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「鎌倉殿の13人」をめぐりながら鎌倉の桜~源氏山・葛原ヶ岡~

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源氏山 は、 源頼朝 の先祖・ 源義家 が源氏の白旗を掲げて後三年の役の勝利を祈願したという鎌倉の中心にある山。 源氏山山頂や 源頼朝像 周辺では、鎌倉市の木に制定されている ヤマザクラ ・ オオシマザクラ が見事です。 後醍醐天皇 の忠臣・ 日野俊基 を祀る 葛原岡神社 参道にはソメイヨシノ。 日野俊基顕彰行事の一環として1924年(大正13年)に植えられたもの。 源氏山の麓には・・・ 頼朝の父 義朝 の亀ヶ谷館跡に建てられた 壽福寺 や、頼朝が霊夢によって建立したという 銭洗弁財天宇賀副神社 や 佐助稲荷神社 があります。 源氏山から尾根伝いを歩く 大仏ハイキングコース にも ヤマザクラ や オオシマザクラ が。 京都御所 の 紫宸殿 に左近の桜として植えられた 桐ヶ谷 は、オオシマザクラの突然変異種で鎌倉原産の桜です。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

武田信玄の継室・三条夫人の墓~甲府:円光院~

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三条夫人(三条の方)は、1521年(大永元年)に左大臣・三条公頼の次女として誕生。 1536年(天文5年)、 武田晴信 (信玄)の継室に迎えられ、三男二女をもうけました。 ただ、嫡男の義信は謀反の疑いをかけられ廃嫡(参考: 義信の墓 )。 長女の黄梅院は 北条氏政 に嫁ぎますがのちに離縁され病死。 次男の信親は盲目、三男の信之は夭折しています。 1570年(元亀元年)7月28日死去(享年50)。 信玄にとっては良き妻ではなかったかのように伝えられるが・・・ 三条夫人の妹は 本願寺 十一世・顕如の妻。 信玄が越前朝倉氏・近江浅井氏・石山本願寺などと手を組んで織田信長包囲網を構築することができたのは、三条夫人のおかげなのかもしれない・・・ 武田信玄の墓 1573年(元亀4年)、三河国へ侵攻して病に倒れた 信玄 は、4月12日、甲府へ帰る途中の信濃国伊那谷で死去。 三条夫人の墓所の近くにあった土屋昌続邸に埋葬されました。 3年後、菩提寺の 恵林寺 に改葬されています。 円光院 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

見させない、聞かせない、言わせない~日光東照宮の三猿~

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悪事を「見ない、聞かない、話さない!」ということで知られる三猿。 ただ、 日光東照宮 の神厩舎の三猿には、さらに深い意味が・・・ 神厩舎の猿の彫刻は、八枚あって人生を表しているのだそうです。 その2枚目が三猿。 まだ幼い頃の様子を表したもの。 幼い子には・・・ 悪事を「見させない、聞かせない、言わせない」 これには、子どもたちに素直に育って欲しいという願いが込められているとともに、子どもたちには良い影響を与えるようにという大人へのメッセージが込められているのだとか。 日光東照宮 源頼朝も祀られている!

源頼朝の御所の桜が満開になった日~献詠披講式~

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1184年(寿永3年)4月4日、 源頼朝 の 御所 の桜が満開になりました。 それはもう美しい風景です。 頼朝は、一条能保を誘って一日中花見の宴会を催しました。 一条能保は、頼朝の姉妹 坊門姫 の夫です。 平時家もご相伴に預かったそうです。 平時家は、「平家にあらずんば人にあらず」と発言したという平時忠の子。 平家でありながら頼朝に味方していました。 花見では、音楽を奏したり、歌を詠む催しも行われたそうです(管弦詠歌)。 献詠披講式 鶴岡八幡宮 で行われる 献詠披講式 は、 源頼朝 が「管弦詠歌の儀」を行ったという故事にちなんで始められました。 西行の歌碑 (中尊寺) 和歌に興味を持っていた 源頼朝 は、1186年(文治2年)8月15日、 東大寺 再建の勧進のため、 奥州 へ向かう途中の西行を御所に招き、歌道と 弓馬 について尋ねています。 鎌倉国宝館前の歌碑 山はさけ 海はあせなむ 世なりとも 君にふた心 わがあらめやも 三代将軍となった 源実朝 は、和歌の道に精進し、家集 『金槐和歌集』 を編纂しました。 鶴岡八幡宮 の境内には、 源実朝 の歌碑があります。 披講(曲節をつけて詠み上げる)される和歌は毎年、実朝の一首と公募によるもの。 2023年の 献詠披講式 は3月24日(金) 13:00~ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

鎌倉検定1級の問題:結城合戦絵詞

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(問) 何を描いた絵か。 1 中先代の乱 2 永享の乱 3 上杉禅秀の乱 4 享徳の乱 「結城合戦絵詞」は、1438年(永享18年)の 永享の乱 をテーマに描かれたもの。 永享の乱は、 鎌倉公方 ・足利持氏が京都の将軍・足利義教に対して起こした反乱。 しかし、今川範忠との戦いに敗れた持氏は、 称名寺 で出家し、翌年、 永安寺 で自害。 嫡男の義久も 報国寺 で自害。 次男の春王と三男の安王は下野国の結城氏朝を頼りますが、1440年(永享12年)に起こった結城合戦に担ぎ出され捕らえられます。 そして、京都に護送される途中の 関ヶ原 で斬首されました。 足利持氏の供養塔 (別願寺) 報国寺のやぐら このやぐらの中に、 報国寺 の開基の足利家時と、 永享の乱 で自刃した足利義久の墓があるのだといいます。 春王・安王の墓 (岐阜県関ヶ原) 春王と安王の墓は、 徳川家康 と石田三成の天下分け目の 関ヶ原の戦い で池田輝政が陣を敷いた地にあります。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆