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御旗楯無 御照覧あれ~甲州市:雲峰寺・菅田天神社~

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甲斐武田家では、重大な決定をするときに棟梁が家宝の「御旗」と「楯無」に誓約したのだそうです。 その時に発せられた言葉が「御旗楯無 御照覧あれ」。 「御旗」(みはた)は、河内源氏二代棟梁の 源頼義 が1056年(天喜4年)に後冷泉天皇より下賜されたものと伝えられる日の丸の旗。 頼義の三男で甲斐武田氏の祖 新羅三郎義光 から武田家に代々伝わったものといわれています。 「御旗」は、甲州市の 雲峰寺 に所蔵されています。 「楯無」(たてなし)は、「御旗」と同じく 新羅三郎義光 から武田家に相伝されてきた鎧(「源氏八領」のひとつ)。 「盾もいらないほどに頑丈」というのが名の由来なのだとか。 「楯無」は、甲州市の 菅田天神社 に所蔵されています。 源頼朝 の父 義朝 が着用した鎧も「楯無」と言われますが、 菅田天神社 所蔵のものと同じなのだろうか、それとも・・・ 参考までに、 源頼朝 が初陣で着用した鎧は「源太が産衣」(げんたがうぶぎぬ)。 雲峰寺 菅田天神社 武田信玄 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

松平信康の介錯を命じられた服部半蔵が建てた西念寺

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1579年(天正7年)、 徳川家康 は、武田に内通していたとして正妻の 築山殿 を殺害し、嫡男の松平信康に切腹を命じます。 信康が遠江国の 二俣城 で自害する際、服部半蔵(正成)は検使に遣わされます。 信康の介錯を命じられたのは渋川四郎右衛門。 しかし、代々恩義のある主君の首に刀はあてられないとして出奔。 そのため、正成が介錯を命じられたのですが・・・ 信康のいたわしい姿を見た正成は、首を打つことができず、刀を投げ捨て倒れ伏してしまったのだといいます。 結局、介錯したのは検使役だった天方通綱だったのだとか。 西念寺 (東京都新宿区) 1594年(文禄3年)、正成は江戸麹町の清水谷に安養院を創建。 信康の供養塔を建てて菩提を弔いながら余生を過ごし、1596年(慶長元年)に死去。 安養院に葬られました。 西念寺 は、安養院を前身とする寺院。 松平信康の供養塔 服部半蔵の墓 西念寺 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

武田家の重宝を所蔵する雲峰寺~甲州市~

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雲峰寺 は、 武田信玄 が祈願所とした寺院。 1582年(天正10年)、武田氏が滅亡すると、家臣は武田家の重宝を雲峰寺に託したのだといいます。 雲峰寺 所蔵の「日の丸の御旗」・「孫子の旗」・「諏訪神号旗」・「馬標旗」。 雲峰寺 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

徳川家康の寺領寄進で創立された東本願寺

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東本願寺 は、教如が 徳川家康 から烏丸七条に寺領を寄進されて創立された浄土真宗大谷派の本山。 正式名称は真宗本廟。 若い頃、 三河一向一揆 に苦しんだ家康。 西本願寺 の准如と対立する教如に寺領を与えて本願寺勢力を分裂させたという説が・・・ 阿弥陀堂 東本願寺 の阿弥陀堂(本堂)は向かって左側。 右側に御影堂。 御影堂 西本願寺 とは逆の配置。 東本願寺 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 鎌倉との繋がりを求めて。