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一族が家康に反旗を翻す中、武功を挙げた本多忠勝~三河一向一揆~

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1562年(永禄5年)、 清州城 で織田信長と同盟を結んだ松平元康( 徳川家康 )。 翌年、家康と名を改め、三河統一を目指しますが、この年に起こったのが家康の三大危機の一つとされる 三河一向一揆 。 一向宗門徒が蜂起した事件ですが、本多正信らの本多一族が反旗を翻す中、 本多忠勝 は家康方で戦い武功を挙げています。 本多忠勝 は、 武田信玄 の近習・小杉左近に「家康に過ぎたるものが2つあり、唐の頭に本多平八」と詠まれた武将。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

武田信玄訓言

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武田信玄公訓言 (恵林寺庫裡前の碑) およそ軍勝五分を以って上と為し、七分を中となし、十分を以って下と為す その故は、五分は励みを生じ、七分は怠りを生じ、十分は驕りをするが故 たとえ戦に十分の勝を得るとも、驕りを生ずれば次には必ず敗るるものなり すべて戦に限らず世の中のことこの心がけ肝要なり 武田信玄像 (甲府駅) 武田信玄 は、 新羅三郎義光 を祖とする甲斐源氏。 武田氏は、 源頼朝 や 木曽義仲 とともに平家打倒の挙兵をした 武田信義 を祖としています。 本拠は、甲府の 躑躅ヶ崎館 。 信濃、上野、駿河に侵攻して領国化し、1572年(元亀3年)には、遠江に侵攻して三方ヶ原の戦いで徳川家康を破って三河に進軍しますが、翌年、野田城を包囲中の陣中で病に倒れ、4月12日、甲府へ帰る途中の信濃国伊那谷(いなだに)で亡くなりました(53歳)。 恵林寺 (甲州市) 菩提寺は甲州市にある 恵林寺 。 甲斐善光寺 (甲府市) 甲斐善光寺 は、 武田信玄 が 上杉謙信 との 川中島の戦い で 信濃善光寺 が焼失してしまうことをおそれ、信濃善光寺の本尊( 善光寺如来 )を甲斐国に移してきたことに始まります(1558年(永禄元年))。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

源氏物語の旧蹟:野宮神社~光る君へ~

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野宮神社 は、伊勢神宮に仕える斎王が伊勢に赴く前に身を清めたという「野宮」の地に鎮座する社。 紫式部 の『源氏物語』~賢木の巻~で、光源氏がお忍びで六条御息所を訪ねた所。 光源氏と深い中にあった六条御息所は、源氏の妻・葵の上と 賀茂祭 (葵祭)でトラブルを起こし、とりついて殺してしまうという人物。 「賢木の巻」では、斎王になった娘とともに野宮で暮らし、源氏と別れを惜しんだ後、斎王とともに伊勢へ下っていく・・・ 野宮神社 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 鎌倉との繋がりを求めて。

織田信長の政策「天下布武」

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織田信長が掲げた「天下布武」。 「武を布いて天下を取る」つまり「武力で天下を取る」という解釈もできますが・・・ 「武」とは「七徳の武」のことだと言われています。 「七徳の武」とは、禁暴・戢兵・保大・定功・安民・和衆・豊財。 信長が皆に伝えたかったのは、 「暴力のない穏やかな世の中にするため、戦争を止め、国を保ち、功をたて、安心できる生活を実現し、和を持って人に接して、豊かな経済を築く」 といった感じなのかもしれません・・・ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆