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徳川家康は真達羅大将の生まれ変わり~鳳来寺の出生伝説~

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1542年(天文11年)2月、 徳川家康 の父・松平広忠と母・ 於大の方 は、七日七晩、 鳳来寺 に籠って子が授かるよう祈願すると・・・ 満願の日、 於大の方 の夢枕に本尊の薬師如来が立ち 「十二神将のうちの真達羅大将を世継ぎとして授ける」 と告げられます。 その後、身籠った於大の方は、12月26日(寅年の寅の日)の寅の刻に男子を出産。 この子が竹千代、のちの家康。 ~真達羅大将の生まれ変わり~ 家康が生まれた頃、 鳳来寺 では・・・ 寅の神の真達羅大将がいなくなってしまいます。 人々は・・・ 「 岡崎城 のお世継ぎは真達羅大将の生まれ変わり」 と噂したのだといいます。 そして・・・ 真達羅大将は、1616年(元和元年)4月17日に家康が亡くなると、 鳳来寺 に戻ってきたのだとか・・・ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 岡崎城 徳川家康 は、1542年(天文11年)、 岡崎城 で誕生。 家康産湯の井戸 松平氏の発祥地という 松平郷 の 松平東照宮 には「家康産湯の井戸」が残されています。 岡崎城 で家康が誕生した際、太郎左衛門家七代当主の親長が早馬でこの水を運んだのだとか。 六所神社 六所神社 は、家康誕生時に産土神とされた神社。 鳳来山東照宮 鳳来山東照宮 は、於大の方が鳳来寺の薬師如来に祈願して家康が誕生したという因縁から三代将軍徳川家光の命により建立されました。 久能山東照宮の神廟 久能山東照宮 の家康の 宝塔 は西向きに建てられています。 西方には・・・ 鳳来寺 ・歴代将軍の位牌が納められている 大樹寺 ・家康が生まれた 岡崎城 が・・・ 鳳来寺 鳳来寺 の本尊は、 日向薬師 ・柴折薬師とともに日本三大薬師の一つ。 1159年(平治元年)、 平治の乱 に敗れた 源頼朝 は、一時、鳳来寺の僧坊・医王院に匿われていたのだとか・・・ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

西方を守護する徳川家康~久能山東照宮の家康の墓~

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久能山神廟 1616年(元和2年)4月17日、 駿府城 で死去した家康は、 久能山 に葬られました。 その 神廟 (墓)は西を向いているのだといいます。 西にあるのは・・・ 鳳来寺 家康の母・ 於大の方 が子授けの祈願をしたという 鳳来寺 。 鳳来寺には、家康が尊敬していたという 源頼朝 が匿われていたという伝承もあります。 大樹寺 歴代将軍の位牌が納められている 大樹寺 。 岡崎城 家康が生まれた 岡崎城 。 さらにその西は京都。 金地院東照宮 以心崇伝 の 金地院東照宮 があります。 久能山東照宮 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

鎌倉幕府の実権を握った北条氏九代

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北条氏九代。 時政 ・ 義時 ・ 泰時 ・時氏・ 経時 ・ 時頼 ・ 時宗 ・ 貞時 ・ 高時 をいうのが一般的です。 『吾妻鏡』によれば、初代時政は上総介平直方の五代の孫。 平直方は、平貞盛につながる人物で、鎌倉に居館を持ち、平忠常の乱後 源頼義 に娘を嫁がせ、 頼義 に鎌倉の地を譲り渡したとされる人物です。 北条時政の墓 (伊豆の国市:願成就院) 北条義時法華堂跡 (鎌倉) 北条泰時の墓 (鎌倉:常楽寺) 北条経時の墓 (鎌倉:光明寺) 北条時頼の墓 (鎌倉:明月院) 北条時宗・貞時・高時廟 (鎌倉:円覚寺佛日庵) ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 源頼朝亡き後、鎌倉幕府の実権を握ったのは北条氏。 鎌倉五山をはじめ、北条氏の政治に関係する寺社・史跡をご紹介します。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

「鎌倉殿の13人」~合戦・謀反・暗殺~

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1180年(治承4年)4月9日、 後白河法皇 の皇子 以仁王 は、 源頼朝 をはじめとする全国の源氏に 平家打倒の令旨 を発します。 4月27日、伊豆国の 北条館 に令旨が到着。 8月17日、頼朝挙兵。 最初の標的は、伊豆国の目代 山木兼隆 。 8月23日、 石橋山 で 大庭景親 ・ 伊東祐親 らと戦いますが大敗。 衣笠城 では、 畠山重忠 ・ 河越重頼 ・ 江戸重長 に攻撃された 三浦義明 が討死。 8月28日、頼朝は 真鶴 から船出、翌日、 安房国 に上陸。 再挙した頼朝は10月6日、 鎌倉入り を果たします。 10月20日、 富士川の戦い で平家軍を敗走させます。 黄瀬川の宿では 源義経 との 涙の対面 がありました。 富士川の戦い に勝利した頼朝は、敵対する常陸国の佐竹氏を攻め、11月5日、 上総広常 の活躍で金砂城を落とします。 1181年(治承5年)3月10日、頼朝の叔父 源行家 が挙兵。 墨俣川 で敗れ、頼朝の弟義円が討死。 1183年(寿永2年)2月、頼朝の叔父志田義弘は、頼朝討滅を企てますが、 野木宮合戦 で敗走し、 木曽義仲 と合流しています。 12月、頼朝は挙兵に功のあった 上総広常 を 梶原景時 に命じて暗殺します。 1184年(寿永3年)1月20日、 源範頼 と 源義経 が 木曽義仲 を滅ぼします。 2月7日、 範頼 と 義経 が 一ノ谷 に拠る平家を攻めます。 4月26日、鎌倉に人質として置かれていた 木曽義仲 の嫡男 義高 が誅殺されます。 一ノ谷の戦い 後に起こった伊賀・伊勢の平家残党の反乱を 義経 が鎮圧。 1185年(元暦元年)2月19日、 屋島 に拠る平家を 義経 が奇襲。 3月24日、 壇ノ浦の戦い で平家滅亡。 5月、 義経 は、 壇ノ浦 で捕えた 平宗盛 を護送して鎌倉に凱旋しようとしますが、頼朝は義経が鎌倉に入ることを許しませんでした。 京都に戻った 義経 は、叔父で頼朝から追討令が出され