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八名に下された北条義時追討の院宣~北条時房や三浦義村にも~

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慈光寺本『承久記』によると、 1221年(承久3年)5月15日、 後鳥羽上皇 は鎌倉御家人8名に対して 北条義時 追討の院宣を下しています。 その8名とは、 武田信光 ・ 小笠原長清 ・ 小山朝政 ・ 宇都宮頼綱 ・長沼宗政・足利義氏・ 北条時房 ・ 三浦義村 。 この8名は・・・ 武田信光 と 小笠原長清 は甲斐源氏。 武田氏は、清和源氏の一流で河内源氏の流れをくむ 新羅三郎義光 を祖とする源氏の名門で甲斐源氏の宗家。 小笠原氏は、甲斐源氏の庶流だが、高倉天皇から小笠原の姓を賜り、家格としては武田氏と並んでいた。 足利義氏は下野源氏。 足利氏は、清和源氏の一流で河内源氏の流れをくむ源義国を祖とする源氏の名門。 この三家の家格は北条氏よりも上。 小山朝政 ・ 宇都宮頼綱 ・長沼宗政は下野国の有力御家人。 朝政と宗政は 小山政光 の子で、頼綱は小山政光の猶子。 北条時房 は 義時 の弟だが・・・ 1218年には 北条政子 の上洛に従い、翌1219年にも上洛し、 後鳥羽上皇 から蹴鞠の腕を認められていたらしい。 三浦義村 は鎌倉幕府の有力御家人だが、 後鳥羽上皇 の招聘に従った 三浦胤義 の兄。 胤義は「兄の義村は必ず味方する」と語っていたらしい。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

将軍になろうとした源頼茂~承久の乱~

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源頼茂は、以仁王に 平家打倒の令旨 を発出させた 源頼政 の孫。 頼茂は在京の御家人で大内裏守護の任に就いていましたが・・・ 1219年(承久元年)7月13日、 後鳥羽上皇 は頼茂のところへ軍を派遣して襲撃させます。 頼茂も応戦しますが、在所だった昭陽舎に火をかけて自刃。 何故、頼茂は襲撃されたのか? 三代将軍 源実朝 が暗殺された後、頼茂は将軍職を望んでいましたが・・・ 朝廷と幕府が九条道長の子三寅を後継と決定してしまったため、謀反を企てていたのだとか・・・ この合戦で大内裏の主要殿舎が焼失。 すぐに再建に着手した 後鳥羽上皇 は、その費用を諸国に賦課しますが、東国の地頭らはこれを拒絶し、幕府も徴税に消極的だったのだといいます。 幕府の内紛が原因で起こった大内裏焼失も 承久の乱 の一因といわれています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 鎌倉との繋がりを求めて!

三浦胤義の禅暁擁立の夢と承久の乱

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三浦胤義は、 三浦義澄 の末子(九男)。 三浦義村 の弟。 禅暁は、二代将軍 源頼家 の四男。 母は一品房昌寛の娘。 1204年(元久元年)7月18日、頼家が 修禅寺 で暗殺されると・・・ 禅暁は 仁和寺 に預けられ、母は胤義の正室となっていました。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 1219年(承久元年)1月27日、三代将軍 源実朝 が暗殺され、実朝を討った 公暁 が誅殺されると、胤義は、禅暁を将軍に据えようと考えます。 しかし・・・ 北条政子 と 北条義時 は、九条道家の子・三寅(後の 九条頼経 )を将軍として迎えてしまいます。 そして・・・ 禅暁は 公暁 に加担していたとして、1220年(承久2年)4月14日に誅殺されてしまいました。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 1221年(承久3年)5月15日、 後鳥羽上皇 が北条義時追討の 院宣 を発します( 承久の乱 )。 『承久記』によると・・・ 検非違使判官に任じられて在京していた胤義は、 承久の乱 の首謀者の一人・ 藤原秀康 に誘われて朝廷軍に与することに。 その理由は・・・ 頼家 との子を北条氏に殺されて嘆き悲しむ妻を哀れに思い、鎌倉に謀反を起こそう考えたから・・・ 『吾妻賀』によると・・・ 1221年(承久3年)6月14日、幕府軍は、 北条泰時 が宇治川を渡河し、北条時房が 瀬田橋 を突破して、朝廷軍を敗走させ、翌15日には京都市中に進軍します。 胤義は 東寺 の門中に籠って、同族の三浦・佐原の軍勢と戦った後、西山の木嶋(太秦)で自殺しました。 首は胤義の家来が太秦の自邸へ持って向かいましたが、兄の 三浦義村 が捜し出して手に入れ、 六波羅 の泰時邸へ送ったのだとか・・・。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 鎌倉との繋がりを求めて!

後鳥羽上皇の地頭職改補の要求を拒絶した北条義時

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『吾妻鏡』によると・・・ 1219年(建保7年)3月9日、 後鳥羽上皇 は藤原忠綱を使者として鎌倉に下向させ、 源実朝 の死を弔うとともに、摂津国の長江・倉橋の両荘の地頭職を改補するよう要求しています。 (御家人の所領安堵で成り立つ鎌倉政権にとって、このような要求を受け入れることはできません。) 3月12日、 北条政子 邸に参集した 北条義時 ・ 北条時房 ・ 北条泰時 ・ 大江広元 は、この要求を拒絶することを決定しています。 (「 源頼朝 の補任した地頭職は改補しない」というのが鎌倉幕府の原則です。) 『北条九代記』によると・・・ 長江・倉橋の両荘は後鳥羽院領。 後鳥羽上皇 の近くに仕えて寵愛されていた白拍子の亀菊に下賜されていました。 しかし、地頭が領家(亀菊)の命令を聞かないため、後鳥羽上皇はすぐに地頭を改めるように命じます。 これに対して 北条義時 は・・・ 「地頭職というのは大昔にはなかったもの。 平家を追討した 源頼朝 卿が総追捕使に任命され、全国に 守護と地頭 を置くことが許されたのである。 平家討伐の間、御家人らは親を敵に討たれ、あるいは子を討たれ、家臣が痛めつけられた。 そういった忠義の臣下の功労に報いるために頼朝卿は土地を分け与えた。 その土地を過失もないのに取り上げるわけにはいかない」 として命令を拒絶したのだといいます。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 鎌倉との繋がりを求めて!

後鳥羽上皇に仕えて北条義時に所領を没収された仁科盛遠

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仁科盛遠は、信濃国安住郡仁科荘の住人。 『北条九代記』によると・・・ 息子の太郎とともに熊野詣をした際、ちょうど 後鳥羽上皇 も熊野に参詣していました。 太郎はたいそうさわやかな童であったので、 後鳥羽上皇 は召し抱えることに。 盛遠は「我が子が院から召されることは大変な名誉」として、太郎とともに院御所に参上して西面の武士として仕えたのだといいます。 しかし・・・ 北条義時 は 「幕府に仕える御家人が許しもなく院中に仕えるのは理解に苦しむ」 として盛遠の二ヶ所の領地を没収。 盛遠の訴えによって 後鳥羽上皇 が土地を返還するよう院宣を下しますが、義時は聞き入れなかったのだそうです。 その後・・・ 1221年(承久3年)、 後鳥羽上皇 が北条義時追討のための兵を募ると、盛遠は朝廷方に付き、越中国礪波山で北条朝時の幕府軍と戦い敗死したのだと伝わります。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 鎌倉との繋がりを求めて!

源実朝の死と後鳥羽上皇と尼将軍

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『吾妻鏡』によると・・・ 1219年(建保7年)正月27日、 源実朝 が暗殺されたため、2月13日、 北条政子 は二階堂行光を京都に遣わし、親王の東下を要請させています。 政子 は、前年2月に 北条時房 を伴なって上洛し、 藤原兼子 と親王の東下の約束を交わしていました。 しかし 後鳥羽上皇 は、 「いずれ誰かを下向させる」 として要請を拒絶し続けました。 そして・・・ 3月9日、 後鳥羽上皇 の使者・藤原忠綱が鎌倉の政子邸に到着し、 実朝 の死を弔うとともに、摂津国長江・倉橋両荘の地頭職を改補するよう要求してきます。 3月12日、政子邸に参集した 北条義時 ・ 北条時房 ・ 北条泰時 ・ 大江広元 は、後鳥羽上皇の要求を拒絶することを決定。 3月15日には、  時房 が一千騎の兵を引き連れて上洛し、地頭職廃止の拒絶を伝えるとともに、親王将軍の東下を要請。 しかし、 後鳥羽上皇 は地頭職の解任を再要求し、親王の東下を拒絶しました。 『吾妻鏡』は、4月~6月の記事が欠落していることから、その後の交渉の詳細は不明ですが・・・ 1221年(承久3年)5月19日の記事によると・・・ 後鳥羽上皇は義時に対して二度にわたって地頭職廃止の院宣を下したが、義時が幕府の根幹を揺るがすとして拒否したため、上皇の怒りは凄まじかったのだといいます。 親王将軍を諦めた幕府は、左大臣・九条道家の子三寅(2歳)を将軍として迎えることとし、7月19日、鎌倉に下向した幼い三寅(のちの 頼経 ) の政務を 政子 が代行することとなります(尼将軍の誕生です。)。 後鳥羽上皇 は、 実朝 の死によって鎌倉殿を失った幕府を自壊に導こうとしていたようですが失敗に終わりました。 後鳥羽上皇の思いは、のちの 「承久の乱」 へと繋がっていきます。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 鎌倉との繋がりを求めて!