投稿

国の伝統的工芸品:鎌倉彫

イメージ
源頼朝 が幕府を開くと、鎌倉は政治・文化・経済の中心として栄えます。 多くの寺院が建立され、仏像の造立もさかんに行われました。 鎌倉に集まった仏師たちは仏像だけではなく、光背・台座・香合・食器・燭台などの仏具も制作していました。 「鎌倉彫」は、宋の工人 陳和卿 (ちんなけい)が持ってきた彫漆工芸を真似て、 運慶 の子康運が仏具を作ったのがはじまりと考えられています。 彫漆工芸は、漆を何百回も塗り重ねた漆の層に彫刻を施すもので、手間も時間もかかり費用もかかりました。 そこで、木に彫刻してから、その上に漆を塗るという方法が考え出されます。 初めは宋の影響が残されていましたが、次第に日本独自の工芸品へと変化していきます。それが今に伝わる「鎌倉彫」です。 建長寺 の「須弥壇」や 円覚寺 の「前机」は、鎌倉彫の原型とされています。 建長寺の須弥壇 円覚寺の前机 室町・江戸時代になると茶道の流行によって、仏師たちは茶道具・文具・食器などの調度品を鎌倉彫で製作するようになり、宮廷や武家以外の町人の生活にも広がっていきました。 江戸時代の『三条西実隆日記』には、「鎌倉物」と記されています。 明治になると神仏分離令が出され、それに伴う廃仏毀釈の運動により、多くの仏師が職を失ってしまいます。ついには、仏師の家は後藤家と三橋家のみとなってしまいました。 鎌倉彫再興碑 後藤家と三橋家は、仏師としての副業であった鎌倉彫を本業とすることにします。 そして、パリ、ウィーン、アメリカで開催された万国博覧会に鎌倉彫を出品するなど、新時代の鎌倉彫制作に努力します。 1889年(明治22年)、横須賀線が開通し、別荘地や保養地として栄え観光客も増えると、鎌倉彫の需要も多くなり、愛好されるようになりました。 第2次世界大戦によって打撃を受けますが、徐々に復活し、1979年(昭和54年)には、全国で27番目となる伝統的工芸品の指定を受けています(神奈川県では初めての指定)。 鎌倉彫会館 1968年(昭和43年)、 若宮大路 沿いに開館しました。 1977(昭和52年)に 小町大路 沿いに開館した「鎌倉彫資料館」も、2005年(平成17年)に 鎌倉彫会館 内に移転しています。

源実朝の渡宋計画と藤沢の船玉神社

イメージ
藤沢市大鋸にある 船玉神社 。 旧鎌倉街道沿いにあります。 船玉神社 かつて宋に渡る事を望んだ 源実朝 。 渡宋のための船の用材を伐り出したのがこの辺りでした。 船玉神社 は、乗船成就海上守護のために勧請されたのだといいます。 1216年(建保4年)6月、実朝は 東大寺の大仏 再建に尽力した 陳和卿 に対面します。 陳和卿は涙を流しながら実朝にこう言ったのだといいます。 「前世で、あなたは宋朝の医王山の長老で、私はその門弟でした」 実朝は、以前、夢の中に現れた高僧にも同じことを言われていました。 陳和卿の言葉を信じた実朝は、ついには宋へ渡ることを決意。 陳和卿に渡宋のための唐船の建造を命じます。 しかし、出来上がった船が海に浮かぶことはありませんでした。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

北条時政と鬼丸

イメージ
『太平記』によると・・・ 北条時政 が鎌倉幕府の実権を握った頃、一尺ほどの小鬼が夜な夜な時政の枕元に来て害そうとすることがあった。 時政は病になってしまうが、ある夜の夢の中に、太刀が老人の姿に変えて現れた。 老人は 「我は汝を守護する者である。 彼の妖怪を退治しようと思うが、汚れた者に触れられて剣が錆びついて抜けない。 妖怪を退治しようと思うなら清浄な者に錆を拭い取らせよ」 と告げて太刀に戻ったのだという。 時政はお告げのとおり、水を浴びさせて身を清めた者に錆を拭わせ、鞘には納めず柱に立て掛けた。 冬の事だったので暖を取るため火鉢を取り寄せたが、火鉢の台を見ると銀の一尺ほどの小鬼鋳たものが。 目には水晶、歯には金がはめ込んである。 時政が夢に出てきた小鬼に似ていると思っていると、立て掛けておいた太刀が俄かに倒れ、小鬼の首を斬り落としてしまった。 以後、時政は小鬼の夢を見なくなり、太刀は鬼丸と名づけられ高時の代まで守護刀とされたのだとか。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ その後、鬼丸は・・・ 北条時行・ 新田義貞 ・斯波高経・ 足利尊氏 ・織田信長・豊臣秀吉・ 徳川家康 などの手を経て、現在は皇室の所蔵となっているらしい。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

源実朝が請来した仏舎利~円覚寺舎利殿と江の島に伝わる伝説~

イメージ
円覚寺舎利殿 円覚寺 の 舎利殿 には、 源実朝 が宋国の能仁寺より請来した仏舎利が納められているのだといいます。 伝説によると・・・ 源実朝 は夢の中で、自分が「宋国の能仁寺の長老・南山道宣律師の再誕である」と告げられます。 鶴岡八幡宮 の供僧・良真は長老の侍者の再誕とも告げられます。 驚いたことに、良真と 壽福寺 の 栄西 も同じ夢を見ていたのだといいます。 そして、自分が南山道宣律師の再誕と確信した実朝は、能仁寺に行くことを決意し、渡宋のための船を造らせますが・・・ 船は動かず、渡宋を断念することに。 しかし実朝は、代わりに良真と願性を中心とする使節団を宋国へ派遣します。 能仁寺を代参した一行は「返礼に所望するものはあるか」と尋ねられ、舎利を求めたのだといいます。 はじめは断れたようですが、何とか舎利を手に入れて帰国します。 しかし、鎌倉への途中で京都に立ち寄った一行は、朝廷から舎利を欲しがられ、約半年も足止めされてしまいます。 これを聞いて怒った実朝は、大軍を率いて上洛することを考えたようですが、 安達盛長 に諌められたのだとか・・・ 舎利は、 実朝 に代わって上洛した 盛長 が朝廷から取り返したのだそうです。 良真像 江の島・聖天島) 実朝 の命で宋へ渡った良真は、 江島神社 の 辺津宮 を開きました。 良真像は 辺津宮 の開山堂にあったそうですが、現在は 聖天島 に置かれています。 江島霊迹建寺の碑 (江の島・辺津宮) 辺津宮 にある 江島霊迹建寺の碑 は、1204年(元久元年)、 源実朝 が宋国に使節を送った際、宋の慶仁禅師より贈られた石碑と伝えられています。 宋に渡った良真は、慶仁禅師に会い、 江の島 の地図を見せようとしたところ、禅師は、 「東の名刹であることは聞かなくても知っています」 といって碑石をくださったのだとか。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 江の島の伝説によると、実朝が使節を派遣したのは12,3歳の頃。 まだ将軍になったばかりで、 北条時政 の後見を受けていた頃です。 また、朝廷から仏舎利を取り戻したという 安達盛長 は、1200年(正治2年)に亡くなっています。 いずれにしても、1204年(元久元年)に使節を派

鎌倉:紅葉・黄葉色づき情報!~源氏山公園~2022/11/03

イメージ
平年どおりの環境であれば、11月20日前後には美しい紅葉・黄葉を愉しむことができそうです。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆