鶴岡八幡宮の神矢に討たれた土屋義清~和田合戦~
鎌倉時代、 鶴岡八幡宮 の 太鼓橋 は朱塗りで「赤橋」と呼ばれていました。 1213年(建暦3年)5月3日、前日に 北条義時 を討つために挙兵した 和田義盛 は、 由比ヶ浜 や 若宮大路 で激戦を繰り広げていました。 そんな中、土屋義清は甘縄から亀谷( 壽福寺 前)に入り、 窟堂 前を経て御所を目指します。 しかし、赤橋の傍らで流れ矢を受けて討死。 矢が北から飛んできたことから神の矢と噂されたのだとか。 この少し前、 北条泰時 から合戦の状況を伝えられた 源実朝 は、戦勝を祈願するために 鶴岡八幡宮 に和歌を奉納していました。 土屋義清は 岡崎義実 の子で、 壽福寺 の本願主でした。 義清の遺体は 壽福寺 に葬られたそうです。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ