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2022鶴岡八幡宮例大祭

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鶴岡八幡宮例大祭 は、 源頼朝 が始めた放生会を起源としているのだといいます。 『吾妻鏡』によると・・・ 1187年(文治3年)8月15日、 源頼朝 は 鶴岡八幡宮 で放生会を催しました。 「放生会」とは、仏教の殺生を禁じる思想に基づくもの。 魚や鳥などを山野に放ち、善根(よい報いを招くもととなる行為)を施すという儀式です。 頼朝 は、放生会に先立って、8月1日から15日までの間、殺生を禁止することを関東の荘園などに命ずるとともに、鎌倉の海、浜、川、溝などでもこれを守らせるよう命を出しています。 源平池 放生会には、 源平池 (放生池)に鯉などを放ち、善業を積むという意味合いが込められていました。         流鏑馬馬場 8月9日には、 流鏑馬馬場 が造られ、埒が結ばれました。 そして、8月15日、 鶴岡八幡宮 に頼朝が出御。 供は、 源範頼 ・平賀義信・加賀美遠光・安田義定・源廣綱・ 小山朝政 ・ 千葉常胤 ・ 三浦義澄 ・ 八田知家 ・ 足立遠元 など。 放生会後に奉納された 流鏑馬 では、 一番 長江太郎義景 ( 鎌倉権五郎景政 の子孫) 二番  伊沢五郎信光 (武田信光・弓馬四天王の一人) 三番  下河辺庄司行平 (藤原秀郷の子孫・小山氏の一族) 四番 小山千法師丸 (?????) 五番  三浦平六義村 (三浦義澄の嫡男) が射手を務め、五騎の全てが的中させたそうです。         残念ながら、今年も 流鏑馬 は中止となっています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 9月14日~16日 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

武蔵国留守所惣検校職と畠山重忠の乱

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畠山重忠像 (深谷市:畠山重忠史跡公園) 武蔵国留守所総検校職 は、武蔵国の武士団の統率権・動員権を持った在庁官人のトップ。 秩父重綱が就いて以後、秩父重隆・ 河越重頼 ・ 畠山重忠 に継承されていきました。 1203年(建仁3年)9月2日、二代将軍 源頼家 の乳母夫 比企能員 を滅ぼして幕府の実権を握った 北条時政 は、9月10日、御家人に対して所領を元のとおり認めるという文書を発行。 10月27日には、 和田義盛 の奉行により、武蔵国の武士団に対して時政に背くことのないように命を下しています。 さらに、当時の武蔵国の国守は時政の娘婿の 平賀朝雅 でしたが・・・ 武蔵国武士団の統率権は「惣検校職」の 畠山重忠 にありました。 武蔵国を完全な形で支配下に置きたい 時政 は・・・ 1205年(元久2年)6月22日、謀略によって重忠を滅亡させます( 畠山重忠の乱 )。 畠山重忠の乱 は、時政の後妻牧の方の讒言から始まったともいわれますが、もともとは武蔵国をめぐる時政・平賀朝雅父子と重忠の対立が原因と考えられるようです。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

源範頼の子が別当を勤めた深大寺

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源氏の尊崇を受けて天台密教の関東第一の道場として興隆したという調布市の 深大寺 。 東京都では浅草の 浅草寺 に次ぐ古刹。 源範頼 が 修禅寺 でで滅ぼされた後、 比企尼 の嘆願で助命された範頼の子範円・源昭は 深大寺 に住み、源昭は別当になったのだといいます。 源昭は 慈光寺 (埼玉県ときがわ町)の別当も兼ねていたのだとか。 鎌倉幕府の最後の将軍 守邦親王 の子守慧も別当を勤めたのだと伝えられています。 深大寺 は「深大寺そば」で知られています。 江戸時代、深大寺の寺領は稲作に不向きだったため蕎麦が栽培され、小作人は「そば粉」を納めていたそうです。 深大寺で来客のために打たれた蕎麦が「深大寺そば」のはじまりなのだとか。 深大寺 を訪れた際、蕎麦で接待された 上野寛永寺 の公弁法親王が将軍家や諸大名に推奨したことで「深大寺そば」の人気が高まり、「献上蕎麦」として全国に知られるようになったのだと伝えられているようです。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

畠山重忠の先祖・秩父氏の本拠地に鎮座する椋神社

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椋神社 は、 畠山重忠 の先祖秩父氏が本拠とした秩父市下吉田に鎮座する神社。 深谷市の 重忠の生誕地 にある 井椋神社 は、この神社が勧請されました。 境内の八幡宮は 秩父氏館 の鎮守として勧請されました。 椋神社 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ