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修禅寺に伝わる「頼家の仮面」と「修禅寺物語」

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頼家の仮面 「頼家の仮面」は、二代将軍 源頼家 が幽閉されていた 修禅寺 に伝えられるもの。 頼家のものと伝わるだけで詳細は不明のようです。 能楽の面なのでしょうか・・・ 修禅寺 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 新歌舞伎作家の岡本綺堂は「頼家の仮面」を拝観して『修禅寺物語』を描いたのだそうです。 源頼家 が伊豆 修禅寺 に流された頃、夜叉王という面作り師がいました。 頼家は、夜叉王に自分の顔の面を注文します。 しかし、何度作っても面に死相が現れ、なかなか完成させることができません。 半年が経った秋の晩、頼家は面の催促に夜叉王を訪れます。 夜叉王は「面に死相が出てしまいお渡しできない」と話すと、頼家は激怒して夜叉王を斬ろうとしますが、それを止めに入った娘の桂(かつら)が死相のある面を頼家に献上します。 桂はそのまま頼家のもとに出仕して側女となりました。 その後、頼家は討手に襲われて命を落とします。 頼家の身代わりになるため、頼家の面を付けて奮戦した桂も瀕死の状態で実家へと落ち延びます。 ところが、夜叉王は・・・ 死相の現れた面は、自分の技量が足りないからではなく、頼家の運命を予言したものだったことを悟り、瀕死の娘の顔を写しとろうとするのでした・・・。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

鎌倉:極楽寺

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極楽寺 は、深沢にあった北条重時の念仏堂を起源としています。 重時は 北条義時 の三男。 母は 姫の前 。 念仏堂は現在地に移された後、子の長時と業時が 忍性 を迎えて念仏寺だった極楽寺を律院に改めました。 極楽寺 は、七堂伽藍と四十九の支院を持つ壮大な寺院でした。 しかし、 新田義貞の鎌倉攻め で焼失、以後再建を繰り返しますが、その度に焼失し、現在は吉祥院を残すのみとなっています。 極楽寺の正式名称は「霊鷲山感応院極楽寺」。 転法輪殿 本尊の 清凉式釈迦如来立像 は、京都 清凉寺 の 釈迦如来立像 を模刻したもので重要文化財。 秘仏で転法輪殿に安置されています。 観音堂 鎌倉観音巡礼 第22番(如意輪観世音)。 客殿 山門 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 開山の 忍性 は、律の布教と、様々な慈善救済事業に力をそそぎました。 境内には、 忍性 が粥を施したとする「極楽寺ノ井」や「千服茶臼」、「製薬鉢」が残されています。 極楽寺ノ井 千服茶臼 製薬鉢 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

仁田忠常の墓~伊豆函南町~

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仁田忠常 は、 源頼朝 の挙兵に従い、鎌倉幕府の創設に尽力した武将。 平家追討 ・ 奥州征伐 で武功をあげ、 曽我兄弟の仇討 事件では十郎祐成を討ち取りました。 頼朝亡き後は 頼家 に仕えますが・・・ 1203年(建仁3年)9月2日、 北条時政 は自邸に 比企能員 を誘き出して暗殺。 暗殺を実行したのは、時政の命を受けた 仁田忠常 と 天野蓮景 (遠景)。 二人は、能員の左右の手をつかみ、山裾の竹藪の中に能員を引きずり込み、殺害したのだと伝えられています。 比企能員暗殺から3日後の9月6日、時政は、能員追討の褒美を与えるため、忠常を自邸(名越邸)に呼び寄せます。 しかし、忠常は暗くなっても出て来ない・・・ これをおかしいと思った忠常の護衛の男は、忠常の馬を引き連れて帰宅し、このことを忠常の弟五郎と六郎に報告しました。 五郎と六郎はこう考えます。   「ひょっとして、将軍から時政を討つよう命じられていたことがばれてしまい、殺されてしまったのではないか・・・」と。 そして、五郎と六郎は、その復讐のため 北条義時 を襲撃(そのとき義時は北条政子邸(御所)にいました。)。 しかし、五郎は波多野忠綱に討たれ、六郎は台所に火を放ち自殺。 一方、忠常は名越邸を出て、帰宅する途中にこのことを知ったのですが・・・ 弟たちの行動で謀反を疑われた忠常は、御所へ向かう途中、 加藤景廉 に誅されました。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

霊山院~東関最初禅窟・ときがわ町~

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霊山院 は、我が国臨済宗の開祖 栄西 に支持した栄朝が建立した 慈光寺 の塔頭。 関東最古の禅窟といわれ、 後鳥羽上皇 から「東関最初禅窟」という勅額を賜ったのだといいいます。 霊山院 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ