1203年(建仁3年)9月2日、二代将軍 源頼家 の後ろ盾だった 比企能員 が暗殺され、比企一族とともに嫡子一幡も滅ぼさました( 比企能員の変 )。 比企一族の墓 (妙本寺) 『吾妻鏡』によると・・・ この年は、正月から珍事が発生しています。 正月2日、 鶴岡八幡宮 の巫女に八幡大菩薩が乗り移り、 「今年中に関東で事が起こる。若君(一幡)は家督を継ぐことはできない。 岸の上の樹は、すでに根が枯れている。人々はそれを知らずに梢の緑に期待している」 と予言したのだといいます。 6月30日、 鶴岡八幡宮 の軒上に降りた一羽の鳩が、しばらくして落下して死んでいます。 7月4日、 鶴岡八幡宮 で三羽の鳩が食い争って一羽が死んでいます。 7月9日、 鶴岡八幡宮 の閼伽棚下に、頭のとれた鳩が死んでいました。 鳩は八幡神の使い そして・・・ 7月20日、 頼家 が重病となり、 8月27日、家督相続の沙汰が発表されます。 9月2日、家督相続の沙汰に不満をもった 比企能員 は、病床の 頼家 に面会し、 北条時政 を征伐する相談をします。 ただ、それは 北条政子 に聞かれていました。 政子 から能員の企てを聞いた 時政 は、先手を討って、その日のうちに比企氏を滅ぼしました。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ①まず、八幡神のお告げのようなものがあって、 ②鳩が変死するという椿事が次々に発生し、 ③ 頼家 が重病となり、 ④ 比企能員 が 北条時政 を討とうする企てが発覚し、 ⑤ 時政 と 政子 は、先手をうって比企一族を滅亡させた。 そして、 ⑥正月2日の巫女の予言のとおり、 頼家 の嫡子一幡は、家督を継ぐことなく比企一族とともにこの世を去った。 というのが『吾妻鏡』の物語です。 9月5日、 頼家 の病状は回復しますが、 政子 によって出家させられ、 修禅寺 に幽閉されました。 翌年には暗殺されています。 源頼家の墓 (伊豆:修禅寺) ところが・・・ 京都の情報によると・・・ 幕府は、 頼家 が9月1日に死んだとして、弟の 実朝 の征夷大将軍任命を要請しているそうです。 その要請書は9月7日に京都に到着しているといいます。 さらに、慈円の『愚管抄』では・・・