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2022鶴岡八幡宮の「ぼんぼり祭」~鎌倉殿の13人~

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鶴岡八幡宮 で 「ぼんぼり祭」 が始まりました。 「鎌倉殿の13人」 の出演者の皆さんの雪洞も掲揚されています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 8月10日の鎌倉は功徳の日! ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

吾妻鏡の物語と比企能員の変~鶴岡八幡宮の巫女の予言から始まった!~

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1203年(建仁3年)9月2日、二代将軍 源頼家 の後ろ盾だった 比企能員 が暗殺され、比企一族とともに嫡子一幡も滅ぼさました( 比企能員の変 )。 比企一族の墓 (妙本寺) 『吾妻鏡』によると・・・ この年は、正月から珍事が発生しています。 正月2日、 鶴岡八幡宮 の巫女に八幡大菩薩が乗り移り、 「今年中に関東で事が起こる。若君(一幡)は家督を継ぐことはできない。 岸の上の樹は、すでに根が枯れている。人々はそれを知らずに梢の緑に期待している」 と予言したのだといいます。 6月30日、 鶴岡八幡宮 の軒上に降りた一羽の鳩が、しばらくして落下して死んでいます。 7月4日、 鶴岡八幡宮 で三羽の鳩が食い争って一羽が死んでいます。 7月9日、 鶴岡八幡宮 の閼伽棚下に、頭のとれた鳩が死んでいました。 鳩は八幡神の使い そして・・・ 7月20日、 頼家 が重病となり、 8月27日、家督相続の沙汰が発表されます。 9月2日、家督相続の沙汰に不満をもった 比企能員 は、病床の 頼家 に面会し、 北条時政 を征伐する相談をします。 ただ、それは 北条政子 に聞かれていました。 政子 から能員の企てを聞いた 時政 は、先手を討って、その日のうちに比企氏を滅ぼしました。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ①まず、八幡神のお告げのようなものがあって、 ②鳩が変死するという椿事が次々に発生し、 ③ 頼家 が重病となり、 ④ 比企能員 が 北条時政 を討とうする企てが発覚し、 ⑤ 時政 と 政子 は、先手をうって比企一族を滅亡させた。 そして、 ⑥正月2日の巫女の予言のとおり、 頼家 の嫡子一幡は、家督を継ぐことなく比企一族とともにこの世を去った。 というのが『吾妻鏡』の物語です。 9月5日、 頼家 の病状は回復しますが、 政子 によって出家させられ、 修禅寺 に幽閉されました。 翌年には暗殺されています。 源頼家の墓 (伊豆:修禅寺) ところが・・・ 京都の情報によると・・・ 幕府は、 頼家 が9月1日に死んだとして、弟の 実朝 の征夷大将軍任命を要請しているそうです。 その要請書は9月7日に京都に到着しているといいます。 さらに、慈円の『愚管抄』では・・・

北条時房の元服式と改名~北条政子に激怒された鼓判官~

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北条時房邸跡 『吾妻鏡』によると・・・ 1189年(文治5年)4月18日、御所で 北条時政 の三男の元服式が行われました。 夕刻から行われた儀式は、大内義信・太田広綱・安田義定・ 源範頼 ・ 北条義時 ・新田義兼・ 千葉常胤 ・ 三浦義澄 ・ 三浦義連 ・ 畠山重忠 ・小山田重成・ 八田知家 ・ 足立遠元 ・工藤景光・ 梶原景時 ・ 和田義盛 ・ 土肥実平 ・ 岡崎義実 ・宇佐美助茂ら源家一門と幕府重鎮が参列する盛大なものでした。 源頼朝 は、 三浦義連 に加冠役を命じ、五郎時連と名づけられました。 義連が加冠役となった理由は、1181年(治承5年)6月に納涼のために行った三浦で、 上総広常 と 岡崎義実 が言い争った際、これを収めたのが義連だったから。 北条政子 が可愛がっているこの子の将来を考えて頼りとなる者を選んだのだといいます。 しかし、1202年(建仁2年)、時連は時房に改名します。 『吾妻鏡』・『北条九代記』によると・・・ この年の6月25日、 源頼家 の御所では、 北条政子 も出席した蹴鞠の会が催されました。 夕刻まで蹴鞠が行われた後、酒宴となり、京の白拍子・ 微妙 が舞います。 平知康 が鼓を打ったのだそうです。 宴たけなわとなり、知康は時連に酒を勧めます。 そして、酔っぱらっていた知康は時連に 「北条殿は、容姿もうるわしく、ふるまいも雅であるのに、時連という名は下劣です。 「連」の文字は、銭を貫く紐の意味でしょうか。 それとも歌の名人紀貫之にあやかろうとするものでしょうか。 いずれにしても適当な名ではないので、早く将軍に申し上げて改名した方がよろしいでしょう」 と言うと、時連は「連」の字を改めることにしたのだとか。 翌日、 政子 は帰りますが、 平知康 の話を「理解に苦しむ愚かなこと」と激怒したそうです。 「その昔、 木曽義仲 が 法住寺殿 を襲撃した際、公卿や殿上人が恥をかいたのも、知康が 後白河法皇 に義仲追討の建議を奉ったから。 また、 源義経 に味方して将軍家を滅ぼそうと諮った際、先代( 頼朝 )は知康の職を解き、追放するように法皇に申し入れていました。 それなのに、 頼家 はそれを忘れ、親しくそばに近づけたことは、亡き父の趣旨に反しています」と。

鎌倉へ下り出家した白拍子の微妙

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『吾妻鏡』によると・・・ 1202年(建仁2年)3月8日、 比企能員邸 の桜が満開となり、 源頼家 が招かれました。 宴会の席では、京都からやってきた白拍子・微妙が舞い、頼家は大いに喜んだのだといいます。 妙本寺の桜 (比企能員邸跡) 比企能員 によると、この微妙は何か訴えがあって鎌倉までやってきたとのこと。 頼家 は微妙に事情を尋ねてみますが、涙を流すばかりで一言も発しません。 それでも何度も尋ねると 「去る建久年中に父右衛門尉為成は、讒訴によって投獄されました。 西獄(都の右京に置かれていた獄舎)の囚人は奥州の夷に与えられ、奥州に追放されることとなりました。 父も 頼朝 さまの雑用に追い立てられて奥州へ下りました。 母は、それから間もなく、悲しみに耐えきれず病気になり死んでしまいました。 その時私は七歳でした。 兄弟も親戚もなく、みなしごとなってしまいました。 大人になった今、父の行方が恋しく、その生き死にを知りたいので、白拍子となって、ここまでやってきました」 と話します。 この話を聞いていた一座の者は、皆同情の涙を流し、速やかに奥州へ使いを出し、消息を尋ねるよう決定されたのだとか。 『前賢故実』より (国会図書館デジタルコレクション) 3月15日、 北条政子 が頼家の御所に参上して、微妙の舞を観ます。 聞きしに勝る舞だったようです。 そして、微妙の父を慕う心根に感心した政子は、急いで奥州へ飛脚をたてて微妙の父親を探すよう命じ、さらに、伝令が帰ってきたときは政子の屋敷に来させるよう命じて、微妙を連れて屋敷へ戻りました。 8月5日、奥州へ遣わした飛脚が帰ってきます。 その報告によると、微妙の父為成はすでに死亡しているとのことでした。 それを聞いた微妙は、号泣しながら気を失い倒れ伏したそうです。 8月15日夜、微妙は、亡き父の追善供養をするため 寿福寺 の 栄西 の宿舎で出家。 法名は持蓮。 同情した 政子 は、深沢のあたりに草庵を与え、政子が持仏堂の礼拝するときには参るようにと言い聞かせたのだそうです。 微妙は、古郡左衛門尉保忠と結ばれていたのですが、保忠が領地の甲斐国へ下っている間に尼となってしまったのだそうです。 8月24日夜、古郡左衛門尉保忠

金剛三昧院の多宝塔は頼朝と実朝の墳墓堂・・・

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金剛三昧院 は、 北条政子 が 源頼朝 と 源実朝 の供養のために建立した寺院。 現在、金剛三昧院にある多宝塔は、政子が 安達景盛 に命じて伽藍整備を行なったときのもので、1223年(貞応2年)の建立。 頼朝が寄進したという 石山寺 (滋賀県大津市)の 多宝塔 に次ぐ古さ。 では、金剛三昧院の多宝塔は、頼朝のためのものか、実朝のためのものか、それとも両者のためのものか・・・ 1281年(弘安4年)に八代執権 北条時宗 が発給した「関東下知状案」によると、当時の金剛三昧院には二基の多宝塔があったらしい。 現存する多宝塔は 頼朝 の墳墓堂で、かつてあったもう一基は 実朝 の墳墓堂だったという説も・・・ 金剛三昧院 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ