別冊『鎌倉手帳』




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2011年9月5日月曜日

吾妻鏡の物語と比企氏の乱~鶴岡八幡宮の巫女の予言から始まった!~

1203年(建仁3年)9月2日、二代将軍源頼家の後ろ盾だった比企能員が暗殺され、比企一族とともに嫡子一幡も滅ぼさました(比企氏の乱)。


 比企一族の墓
(妙本寺)


『吾妻鏡』によると・・・

この年は、正月から珍事が発生しています。

正月2日、鶴岡八幡宮の巫女に八幡大菩薩が乗り移り、

「今年中に関東で事が起こる。若君(一幡)は家督を継ぐことはできない。

岸の上の樹は、すでに根が枯れている。人々はそれを知らずに梢の緑に期待している」

と予言したのだといいます。


6月30日、鶴岡八幡宮の軒上に降りた一羽の鳩が、しばらくして落下して死んでいます。

7月4日、鶴岡八幡宮で三羽の鳩が食い争って一羽が死んでいます。

7月9日、鶴岡八幡宮の閼伽棚下に、頭のとれた鳩が死んでいました。


鳩は八幡神の使い


そして・・・

7月20日、頼家が重病となり、

8月27日、家督相続の沙汰が発表されます。

9月2日、家督相続の沙汰に不満をもった比企能員は、病床の頼家に面会し、北条時政を征伐する相談をします。

ただ、それは北条政子に聞かれていました。

政子から能員の企てを聞いた時政は、先手を討って、その日のうちに比企氏を滅ぼしました。

(参考:恐るべき北条政子~比企能員の暗殺・比企一族滅亡~


というのが、『吾妻鏡』で紹介された比企氏の乱の流れです。


整理しますと・・・

①まず、八幡神のお告げのようなものがあって、

②鳩が変死するという椿事が次々に発生し、

頼家が重病となり、

④比企能員が北条時政を討とうする企てが発覚し、

時政政子は、先手をうって比企一族を滅亡させた。

そして、

⑥正月2日の巫女の予言のとおり、頼家の嫡子一幡は、家督を継ぐことなく比企一族とともにこの世を去った。

というのが『吾妻鏡』の物語です。

(9月5日、頼家の病状は回復しますが、政子によって出家させられ、修禅寺に幽閉されました。翌年には暗殺されています。)


 源頼家の墓
(伊豆:修禅寺)


ところが・・・、京都の情報によると・・・

幕府は、頼家が9月1日に死んだとして、弟の実朝の征夷大将軍を任命を要請しているそうです。

その要請書は9月7日に京都に到着しているといいます。


さらに、慈円の『愚管抄』では・・・

頼家は病気になったので自ら出家し、
家督は一幡に譲ることとした。

ところが、

それでは、比企氏の全盛となってしまうと恐れた北条時政は、
比企能員を招いて暗殺し、

病床の頼家を御所から大江広元の屋敷に移し、
一幡を殺すため、軍勢をさしむけた。

一幡は、母の若狭局が抱いて逃げのびたが、
比企一族はみな討たれた。

やがて、奇跡的に病が回復した頼家は、大いに怒り、
病み上がりの体で、かたわらの太刀をとり、立ち上がったが、

政子がとりついたりしておさえつけ、
ついには、修禅寺に幽閉した。

11月になって一幡が捕らえられ、
北条氏の郎党によって刺し殺された」

と伝えられています。

慈円は京都にいたので、直接見聞きしたわけではなく、京都に伝えられた情報を書いたのでしょう。

ただ言えることは、慈円の場合、『吾妻鏡』の作者と違って作り物語を書く理由は何もないということです。

(参考:源頼家の悲劇~比企氏の乱の真相は・・・~










☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 比企能員の暗殺・比企氏滅亡


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