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後鳥羽上皇の遺骨が納められた京都大原の勝林院

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勝林院 は、「天台声明」(しょうみょう)の道場として栄えた寺。 1221年(承久3年)の 承久の乱 で隠岐に流された 後鳥羽上皇 。 1239年(延応元年)2月22日、京都に還ることなく崩御(享年60)。 翌年、遺骨が 勝林院 に納骨されたのだといいます。 さらにその翌年には、 勝林院 の南に法華堂が建立され納骨されたのだそうです( 大原陵 )。 勝林院 の本尊は阿弥陀如来。 法然 の伝説から「証拠の阿弥陀」と呼ばれています。 勝林院 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

8月6日から鶴岡八幡宮の「ぼんぼり祭」が始まります。

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2022年の 「ぼんぼり祭」 は8月6日から8月9日。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 8月10日の鎌倉は功徳の日! ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

2022三嶋大祭り~行列の頼朝役には大泉洋さん~

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三嶋大祭りは、 三嶋大社 の祭礼にあわせて開催される三島市最大のイベント。 期間は8月15日・16日・17日 中日は三嶋大社例大祭 そして、頼朝公旗挙げ行列 2022年の頼朝公旗挙げ行列は、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に出演者が参加。 源頼朝 役:大泉洋さん 安達盛長 役:野添義弘さん 源範頼 役:迫田孝也さん 仁田忠常 役:高岸宏行さん 頼朝公旗挙げ行列は15:30に三嶋大社大鳥居前を出発する予定です。 最終日には三嶋大社で 武田流流鏑馬 も。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

源頼家の念仏禁止令~称念房の伝説~

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1200年(正治2年)5月12日、 源頼家 は、「念仏の禁止令」を出します。 そして、 頼家 に命じられた比企弥四郎(時員)は、念仏僧14名を捕らえて、政所の橋の傍らで袈裟を剥ぎ取り、順番に焼いていきました。 橋には、大勢の見物人が集まり、皆 頼家 の愚行を非難したそうです。 筋替橋 「政所の橋」とは 「筋違橋」 のことらしい。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ところが、僧の中に称念房という者がいて、比企弥四郎にこう告げます。 「俗人の束帯と僧侶の袈裟とは同じ黒を用いることになっている。 どうして黒衣の着用を禁止されるのか。 総じて、今の世の政治のありさまは、 仏の道にも、世の中の道理のいずれにもはずれたもの。 これは滅亡の元凶でしょう。 しかし、称念の袈裟は、正しい道を表した袈裟であるので、 焼くことはできないでしょう」 その言葉どおり、 称念の袈裟を焼くことは出来なかったといいます。 称念は、もとのとおり袈裟を着込みどこへともなく消えて行きました。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 念仏禁止令は、その後すぐに中止され、世間の笑いぐさになったということです。 源頼家 (京都:建仁寺蔵) ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

鎌倉殿源頼家は蹴鞠に夢中!北条泰時は伊豆で徳政!

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『吾妻鏡』によると・・・ 1201年(建仁元年)9月7日、鞠の名人・紀内所行景(きないどころのゆきかげ)が京都から鎌倉に到着します。 源頼家 が 後鳥羽上皇 に願い出て実現したのだそうです。 9月9日、 大江広元 に連れられて御所に参った行景は、頼家と対面し、銀剣を賜っています。 そして9月11日、紀内所行景が鎌倉にきて初めての蹴鞠が催されます 。 頼家に付き合ったのは、 北条時連 (時房)・紀内所行景・冨部五郎・比企時員・肥多宗直・大輔房源性・加賀房義印ら。 9月15日は 鶴岡八幡宮 の 放生会 。 頼家は、この日も早朝に蹴鞠を催したのだといいます。 鶴岡八幡宮 の放生会は、8月15日でしたが・・・ 8月11日に襲来した台風で、鎌倉の家々が押し潰され、港では船がひっくり返され、鶴岡八幡宮寺の回廊や八足門を始めとする仏閣・塔廟が倒れてしまい、万のうち一つも災難に合わない所はなかったというほどの被害を受けてしまいます。 下総国の葛西郡の海辺では、潮が押し寄せて農民や漁師などの家が巻き込まれ、一千余人が波にまかれて溺れ死んだのだといいます。 そのため放生会が延期されていました。 8月23日にも台風が襲来。 二度の台風で、五穀は全滅してしまいます。 9月20日、御所で蹴鞠。 この日の『吾妻鏡』は、世間の窮状を顧みず連日蹴鞠に精を出している頼家を批判して「凡そ(およそ)此の間政務を抛ち(なげうち)、連日の此の藝を專らに被(され)・・・・」と記しています。 9月22日も蹴鞠。 この日、 北条泰時 は頼家の近習の一人中野能成を呼び 「蹴鞠は、奥深い藝なので夢中になることに文句はないが、二度の台風で、寺社・民家が破壊され、五穀は不作となり、飢饉に陥っているときなので、慎むべき」 と語ります。 これに対して頼家は、父の 義時 や祖父の 時政 を差し置いて忠告してきたことに機嫌を損ねたようです。 泰時を心配した近習の親清法眼は、10月2日、頼家の機嫌が直るまで病気と称して、しばらく伊豆国へ帰っているように助言したのだそうです。 翌日、泰時は 伊豆国 へ下向。 ただ、これは頼家が機嫌を損ねたからではなく、飢饉で困っている領民を救うためで、もともと予定していたことだったのだといいます( 北条泰時

後鳥羽天皇宸翰御手印置文~後鳥羽上皇の遺勅:水無瀬神宮~

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水無瀬神宮 に伝わる「後鳥羽天皇宸翰御手印置文」 (ごとばてんのうしんかんおていんおきぶみ)は、 承久の乱 で隠岐に流され、1239年(延応元年)2月22日に崩御した 後鳥羽上皇 の遺言。 崩御の13日前に水無瀬親成(藤原親成)に書き残したもの。 摂津の水無瀬・井口の両荘を与えることや、自身の菩提を弔うことなどが記されています。 水無瀬神宮 の前身となる水無瀬御影堂は、この遺言に基づいて建立されたのだといいます。 水無瀬神宮 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ