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北条政子の発願で建立された高野山:金剛三昧院

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金剛三昧院 は、1211年(建暦元年)、 北条政子 の発願で 源頼朝 の菩提を弔うために建立された禅定院に始まる寺院。 1219年(承久元年)、暗殺された 源実朝 の遺骨が納められ、金剛三昧院に改称されたのだといいます。 実朝の死後、出家して高野山に入った 安達景盛 が伽藍整備を行ないました。 国宝の多宝塔は、 石山寺 の 多宝塔 に次ぐ古さ。 金剛三昧院 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

建礼門院徳子の隠棲地~京都大原:寂光院~

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建礼門院徳子は 平清盛 の娘、高倉天皇の后、 安徳天皇 の母。 壇ノ浦の戦い 後、 寂光院 に隠棲して平家一門と 安徳天皇 の菩提を弔いながら暮らしたのだといいます。 建礼門院御庵室跡 建礼門院大原西陵 1213年(建保元年)12月13日に崩御した 建礼門院徳子の陵墓。 寂光院 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

弾劾状に名がない北条時政と北条義時~梶原景時の変~

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『吾妻鏡』によると・・・ 梶原景時 を弾劾する訴状に署名した者の中に 北条時政 と 北条義時 の名が連ねられていないようです。 何故なのでしょうか? 九条兼実の日記『玉葉』によると・・・ 梶原景時 に讒言されたのは 結城朝光 ではなく時政。 その理由は、 「 源頼家 の弟千幡(のちの 実朝 )を担ぎ出し、頼家を討とうとする企みがあったから」 遠い都で何が起こったのか把握できるのかという意見もあるのかもしれませんが、関係のない都の者だからこそ真実を書けるということも・・・ 『吾妻鏡』は、北条氏に有利に描かれていると言われますが、 「梶原景時の変」 についても、真実を隠してしまっている可能性は十分にあり得ます。 参考までに、その後の流れをみてみますと・・・ 梶原景時 が討死してから3年後の1203年(建仁3年)、 北条時政 は 比企能員 を暗殺し、その一族と頼家の子 一幡 を滅ぼしています(参考: 比企能員の変 )。 参考までに、この事件の直前に 阿野全成 が謀叛の罪で殺されています(参考: 阿野全成の誅殺 )。 比企能員の変 によって 頼家 は 修禅寺 に流され、翌年暗殺されました。 頼家が殺されたことについて・・・ 九条兼実の弟慈円が書いた『愚管抄』には、 「頼家は、乳母夫を務め、一の郎等であった 梶原景時 を見殺しにしなければ、このようなことにはならなかった」 と書かれているようです。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

梶原景時弾劾の訴状が作成される!~梶原景時の変~

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『吾妻鏡』によると・・・ 1199年(正治元年)に起こった 梶原景時 の鎌倉追放で、中心として動いたのは 三浦義村 。 10月27日、景時の讒言によって謀反を疑われた 結城朝光 の相談を受けた義村は、 和田義盛 ・ 安達盛長 らを集めます。 そして、景時に恨みを抱いていたという中原仲業に訴状を起草を依頼しました。 仲業は、 中原親能 の家人だったといわれ、 源頼朝 の上洛をきっかけに下向したのだと考えられているようです。 翌28日、 鶴岡八幡宮 の回廊には 千葉常胤 ・ 三浦義澄 ・千葉胤正・ 三浦義村 ・ 畠山重忠 ・ 小山朝政 ・ 結城朝光 ・ 足立遠元 ・ 和田義盛 ・和田常盛・ 比企能員 ・伊賀朝光・二階堂行光・ 葛西清重 ・八田知重・波多野忠綱・大井実久・若狭忠季・渋谷高重・ 山内経俊 ・ 宇都宮頼綱 ・榛谷重朝・ 安達盛長 ・ 佐々木盛綱 ・ 稲毛重成 ・安達景盛・ 岡崎義実 ・土屋義清・東重胤・土肥維平・河野通信・曽我祐綱・二宮友平・長江明義・毛呂季綱・ 天野遠景 ・工藤行光・中原仲業らが集結。 仲業が訴状を読み上げると、66名が署名。 訴状には 「鶏を養(か)う者は狸を畜(やしな)わず、獣を牧(か)う者は豺(やまいぬ)を育(やしな)わず」 とあったのだとか・・・。 訴状は、和田義盛と三浦義村が 大江広元 に託しています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

東大寺の僧兵に称賛された結城朝光と傲慢無礼に振舞った梶原景時

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1195年(建久6年)3月12日、 源頼朝 が 東大寺 の 大仏殿 の落慶供養に参列したときの事。 門内に入ろうとした見物の僧兵達が警護の武士ともめ事を起こしてしまいます。 梶原景時 がそれを鎮めようとしますが、その態度が傲慢無礼だとして一触即発の事態となってしまいました。 頼朝は 結城朝光 を呼んで事態を収拾するよう命じます。 朝光が僧兵達の前に膝まづいて 「前右大将家の使者である」と言うと、僧兵達はその礼儀に感じて、まずは騒ぐのをやめました。 そして頼朝の意向を伝えます。 「この 東大寺 は 平清盛 のために炎上し、礎石ばかりを残して灰塵と化してしまいました。 それには僧兵達が最も悲嘆したことでしょう。 源氏は、たまたま後援者となり、再建のはじめから供養の今日にいたるまで援助してきました。 そればかりか、仏道の修行を妨げる悪魔の障害を排除し、落慶法要のために数百里の道のり越えて、この大伽藍に詣でました。 僧兵達は、このことを何故喜ばないのでしょう。 武士であっても、仏道への帰依を思い、大きな事業にたずさわれた事に喜びを感じました。 知恵のある僧侶が何故秩序を乱し、自分達の寺の再興を妨げようとするのでしょう。 それは、とても不適当な考えですので、その理由を承りましょう」 これを聞いた僧兵達は、すぐに自らの行為を恥じ、後悔し、数千の僧兵が一斉に静かになったのだとか。 そして、勇士・容貌の美しさ・はっきりとした物言いに加え、ただ単に戦の計略に深く通じているばかりでなく、寺社での礼節も知っている使者に興味を抱いた僧兵達は名を尋ねます。 朝光は小山と称さず「結城七郎」と名乗って戻っていったのだとか・・・ 東大寺大仏殿 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 頼朝亡き後の1199年(正治元年)10月、 梶原景時 は 結城朝光 を謀反の疑いありとして陥れようとします。 東大寺で面目を潰され景時は、朝光を憎んでいたという説もあるようです。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ