別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2022年7月21日木曜日

弾劾状に名がない北条時政と北条義時~梶原景時の変~


『吾妻鏡』によると・・・

梶原景時を弾劾する訴状に署名した者の中に北条時政北条義時の名が連ねられていないようです。

何故なのでしょうか?


九条兼実の日記『玉葉』によると・・・

梶原景時に讒言されたのは結城朝光ではなく時政。

その理由は、

源頼家の弟千幡(のちの実朝)を担ぎ出し、頼家を討とうとする企みがあったから」


遠い都で何が起こったのか把握できるのかという意見もあるのかもしれませんが、関係のない都の者だからこそ真実を書けるということも・・・

『吾妻鏡』は、北条氏に有利に描かれていると言われますが、「梶原景時の変」についても、真実を隠してしまっている可能性は十分にあり得ます。


参考までに、その後の流れをみてみますと・・・

梶原景時が討死してから3年後の1203年(建仁3年)、北条時政比企能員を暗殺し、その一族と頼家の子一幡を滅ぼしています(参考:比企能員の変)。


参考までに、この事件の直前に阿野全成が謀叛の罪で殺されています(参考:阿野全成の誅殺)。

比企能員の変によって頼家修禅寺に流され、翌年暗殺されました。

頼家が殺されたことについて・・・

九条兼実の弟慈円が書いた『愚管抄』には、

「頼家は、乳母夫を務め、一の郎等であった梶原景時を見殺しにしなければ、このようなことにはならなかった」

と書かれているようです。



梶原景時


梶原景時の変

梶原景時・景季の最期








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