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法華経と息子に救われた大橋太郎通貞~鎌倉:光則寺~

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大橋太郎通貞の土牢 光則寺 の裏山にある土牢です。 大橋太郎通貞は九州平氏。 平氏の「一の郎党」といわれた平家貞の孫なのだと伝えられています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 伝説によると・・・ 大橋太郎は豊後国の地頭をしていました。 ある時、鎌倉の 源頼朝 に呼び出され、謀叛の疑いで投獄されてしまいます。 豊後国の領地は没収、国に残してきた妻と男子は追放されました。 それから12年の歳月が過ぎました。 父への思いも大きくなっていた少年は、父に会うため鎌倉へと旅立ちます。 そして 鶴岡八幡宮 の詣でると法華経を唱えました。 その事が頼朝の耳にも入ります。 頼朝が少年を呼び寄せて話を聞くと、大橋太郎の子であることが判明します。 頼朝は、親を思う子の心に免じて大橋太郎を解放したということです。 熱心な法華経信者だった頼朝。 法華経の功徳についても語ったのだとか・・・。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 大橋太郎の伝説はいろいろあるようです。 光則寺 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

建長寺の塔頭回春院と原田地蔵の伝説

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『新編鎌倉志』によると・・・ 建長寺 の塔頭回春庵( 回春院 )の山の上には原田地蔵があって、地中に掘り埋めてあったのだといいます。 この地蔵は、原田種直の子が鎌倉に来て、父の骨と由比の戦死者の骨を取り集めて粉にして作ったものだったのだといいます。 原田種直は・・・ 筑前国の武将で、1185年(元暦2年)2月1日、 源範頼 が率いる平家追討軍と戦い敗れています( 葦屋浦の戦い )。 平家滅亡後は捕えられて鎌倉に幽閉されていたのだと伝えられています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 原田種直と地蔵尊の伝説は、愛知県豊橋市にも伝えられています。 民話「千体骨地蔵」によると・・・ 葦屋浦の戦い で敗れた原田種直は、捕えれて鎌倉の土牢に幽閉されてしまいます。 その時、種直の妻・栄燿は、お腹に子を授かっていました。 合戦後、男子が誕生して花若丸と名付けられます。 花若丸が13歳になった時の事。 父が敗れた葦屋浦に出かけます。 そこには、戦死した武将たちのものと思われる骨がたくさんありました。 花若丸は、その骨をすりつぶして、心を込めて小さな地蔵像を千体作り上げました。 そして、千体の地蔵像を厨子に入れて、父の許しを請うために鎌倉へと旅立ちます。 千体の地蔵像を背負い、念仏を唱えながら旅をする花若丸の噂は、やがて 源頼朝 の耳にも入ります。 頼朝に召された花若丸は、自分が原田種直の子であることや鎌倉へ来た理由を語ります。 花若丸の親を思う気持ちに打たれた頼朝は、種直の罪を許したのだとか。 その後、種直たちは、三河国の足助に住むことに。 足助に向かう道中で見た花ケ崎が葦屋浦に似ていたことから、そこに正林寺を建立して千体骨地蔵を安置したのだといいます。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 『新編鎌倉志』は原田種直が亡くなった後のことで、「千体骨地蔵」の民話では生存中のことという違いはありますが、戦死した者の供養のために地蔵像を作ったという話は一致しているようです。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 回春庵跡 建長寺 は、地獄谷と呼ばれた処刑場跡に建てられた寺。 建長寺が建立されるまでは、その鎮魂のため、地蔵尊を本尊とした 心平寺 がありました。 その心平寺は 回春院 (回春庵)の辺りにあったのだと

壇ノ浦の戦いと三種の神器と頼朝・範頼・義経

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『吾妻鏡』によれば・・・ 1185年(元暦2年)3月14日 、 源頼朝 は九州にいる 源範頼 に使者を送り、平家追討に当たっては考えをめぐらせ、三種の神器と安徳天皇を無事に京都へお返しするよう命じています。 ※三種の神器は歴代天皇が継承してきた鏡・玉・剣。 鏡=八咫鏡(やたのかがみ) 玉=八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま) 剣=草薙剣(くさなぎのつるぎ) ※頼朝には平家を滅ぼす事の他、安徳天皇と三種の神器を取り戻すという使命がありました。 3月24日 、長門国赤間関 壇ノ浦 の海上で、源氏と平家の最後の戦いが行われました。 昼頃になると平家の敗北が決定的となります。 鎌倉軍としては、何としても三種の神器と安徳天皇を助けたいところでしたが・・・ 平清盛 の妻時子が草薙剣を持って入水。 安徳天皇は按察局に抱かれて海に沈んでいきました。 4月5日 、朝廷から、 源義経 に三種の神器を届けるよう命ずるための使者が発せられます。 4月11日 、鎌倉の 頼朝 のもとに、 義経 の報告書が届き、安徳天皇と草薙剣が海に沈んだことが知らされます。 頼朝は報告書を握りしめながら、 鶴岡八幡宮 の方を向いて黙っていたそうです。 ※言葉も出ないといった感じなのでしょうか。 4月12日 、 頼朝 は、 範頼 に暫く九州に留まり平家から取上げた領地などの処理を命じてます。 義経 には、捕虜を連れて京都へ上がるよう命じています。 4月24日 、八咫鏡と八尺瓊勾玉が今津辺りに届き、藤原通資が取りに行ったようです。 この日、鎌倉には、 範頼 から三河守を辞任する旨の書状が届いています。 ※安徳天皇と草薙剣を海に沈めてしまった責任からなのでしょうか。 5月5日 、 頼朝 は、 範頼 に草薙剣を探し出すことと、概ね冬まで九州に留まり、戦後処理をするように命じました。 また、御家人のなかに言うことを聞かない者がいても勝手に処分を下さず、頼朝に報告するように命じました。 この命令には・・・ 一年前に後白河法皇から範頼と義経が追討使に任命され、 「範頼は九州を、義経は四国に入って、それぞれの国々を管理するはずであったにもかかわらず、壇ノ浦で勝利した義経は、九州の管理の事まで奪い取って越権行為をし、

源義経の不行跡と鎌倉追放~源平合戦後に源頼朝がとった措置~

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源義経と弁慶 ( 天王祭の山車人形 ) 1185年(元暦2年)3月24日、平家を 壇ノ浦 で滅ぼした 源義経 ですが・・・ 4月12日、鎌倉の 源頼朝 から捕虜を連れて京都へ上るように命が下ります。 4月15日、関東の御家人が、頼朝の推薦を得ずに、朝廷の衛府や所司の官職に任ぜられます。 頼朝は、功績もないのに許せないこととして、官職を受けた者たちに、各々の悪いところ書き添えた命令文書を送付し、墨俣川から東へ下る事を禁じています。 参考までに・・・ 義経は前年の8月6日に頼朝に無断で左衛門少尉の任官と検非違使の宣旨を受けています。 そのため平家追討の将軍から一時外されていました。 4月21日、九州から 梶原景時 の伝令が鎌倉に到着。 書状は、前半に合戦の経過が書かれ、後半は源義経の不行跡を訴えるものでした。 不行跡の内容は・・・ 「義経殿の勝利は、頼朝様が御家人を貸し与えたからこそ成しえたもの。 義経殿は自分一人の手柄だと思い込んでいますが、大勢が力を合わせたから勝てたのです。 多くの者は、義経殿の事を考えて戦ったのではなく、ただ頼朝様への忠義を尽くすために、勲功を上げようと励んできました。 にもかかわらず、平家を滅ぼした後の義経殿は、態度が大きくなりました。 従っている者は、本心ではありません。 景時が、頼朝様の意に反した行動を諌めると、それが仇となって処刑されそうになります。 戦いが終わった今、そばに仕える意味もないので、早く許可をいただき関東へ戻りたいと思っております。 侍所の別当(長官)・ 和田義盛 と所司(次官)・ 梶原景時 は、それぞれ範頼殿と義経殿に付けられました。 範頼殿は 千葉常胤 や 和田義盛 と相談して事に当たりましたが、義経殿は自分一人の考えで行動し、頼朝様のお考えを無視します。 景時に限らず多くの者が恨みに思っています」 5月4日、頼朝は、 梶原景時 の使者が九州へ帰る時に書状を持たせます。 その内容は・・・ 「義経を勘当したので、もう命令に従ってはならない。 ただし、京都に送られた捕虜たちの罪名が決まるまで景時をはじめとする御家人が警護をするように。 勝手に鎌倉へ帰って来ることのないように」 5月7日、京都から亀井重清が鎌倉に

波の底の都~壇ノ浦の戦い~

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源平最後の戦いとなった 壇ノ浦 。 はじめは優勢だった平家軍でしたが・・・ 潮の流れが変わって形勢が逆転。 源義経 の猛攻撃をうけて壊滅状態となり、敗北を悟った平家一門は次々と海上へ身を投じていきました。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~安徳天皇の入水~ 『平家物語』によると・・・ 源氏の兵たちが平家の船に乗り移ってくると、二位尼( 平清盛 の妻時子)は、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)を脇に挟み、草薙の剣(くさなぎ)を腰に差し、幼い 安徳天皇 を抱いて、ゆっくりと船の端に進んでいきました。 安徳天皇に「どこへ行くのだ」と問われた二位尼は、涙を流しながら 「君は、今の世に天子としてお生まれになりましたが、悪縁に引き寄せられ、御運はすでに尽きてしまいました。 まずは東に向かって伊勢大神宮を拝み、西方浄土の来迎の恩恵を受けるために念仏を唱えなさいませ。 この国は、辺地にある粟粒を散らしたような小国で、心苦しい場所です。 あの波の下にこそ、極楽浄土という素晴らしい都がございます。 そこへいっしょに参りましょう」 と答えます。 そして、「波の底にも都はありますよ」と慰めてから、深い海の底に沈んでいったのだといいます。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~建礼門院の夢に出てきた竜宮城~ 安徳天皇 の母・建礼門院( 平清盛 の娘徳子)も海に飛び込んだのですが、助けられて都に戻ることになります。 『平家物語』によると・・・ 播磨国の明石の浦(現在の兵庫県明石市)に着いた建礼門院。 うとうととしていると、昔の内裏よりもりっぱな所に、安徳天皇を参らせた平家一門の公卿や殿上人が礼義正しく並んでいる夢を見ます。 都を出てから、こんなに美しい所を見たことがありませんでした。 建礼門院が「ここは何という所ですか」と問うと、二位尼が「竜宮城という所です」と答えたのだとか・・・。 水天門 安徳天皇 を祀る 赤間神宮 の 水天門 は、竜宮城をイメージした門。 赤間神宮 https://www.yoritomo-japan.com/dannoura/akama-jingu.html ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆