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甲斐源氏:武田信義

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武田信義像 武田信義 は、甲斐源氏の四代当主・甲斐武田氏の初代当主。 武田信義館跡 甲斐国の巨摩郡武田郷(現在の山梨県韮崎市)に館を構えて武田を名乗ったのだという。 武田八幡宮 武田八幡宮 は、甲斐武田氏の氏神。 信義 はここで元服したのだと伝えられている。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 1180年(治承4年)、以仁王が 平家打倒の令旨 を発すると挙兵。 富士川の戦い では平家軍を敗走させている。 当初は 源頼朝 の傘下には入らず活動していたが、のちに武田軍は 一ノ谷の戦い や 壇ノ浦の戦い に従軍して活躍した。 しかし、頼朝から謀反の疑いをかけられて転落。 1186年(文治2年)3月9日、 信義 は謀反の疑いが晴れないまま亡くなったのだという。 武田信義の墓 (願成寺) 願成寺 は 信義 の菩提寺。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

上総広常の動員力~鎌倉殿の13人~

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房総半島で再挙した 源頼朝 のもとに 上総広常 は二万騎の兵を率いて参陣しました。 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第七話で、広常は「頼朝につく得」を 和田義盛 と 北条義時 に問います。 義盛が 「敵から奪った土地を望みの分だけ差し上げる」 と提案したのに対し、広常は、 「悪いが土地を増やしてもらうほど困ってない」 と言い放ちました。 広常が二万騎の兵を動員できる源は、塩と砂鉄にあったのだではないかと考えられているようです。 古代から上総国は製塩・製鉄が盛んだったそうです。 玉前神社 『吾妻鏡』によると、 1182年(治承6年)7月、 上総広常 は 玉前神社 に鎧を奉納。 そこには、源頼朝の祈願成就と東国泰平を祈った願文が結び付けてあったそうです。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

兄頼朝の挙兵に駆け付けた阿野全成~鎌倉殿の13人~

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「鎌倉殿の13人」第七話で登場した 阿野全成 は 源頼朝 の異母弟。 平治の乱 後、 醍醐寺 に入って出家。 醍醐寺 では悪禅師と呼ばれていたそうです。 大河ドラマでは 北条政子 らが匿われている 伊豆山権現 に現れました。 伊豆山権現 の僧兵たちに捕らえられそうになった政子らに全成は言いました。 「私が風を起こす、その隙に逃げられよ」 しかし・・・ 「今日は難しいようです」 醍醐寺 での修行の成果を発揮できなかったようです。 将来、結婚するであろう 実衣 (阿波局)からは、 「なんなのよぉ~」 と言われていましたが、今後の二人の仲がどう発展していくのか楽しみです。 醍醐寺 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

房総で再挙した源頼朝~鎌倉殿の13人第七話~

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安房国へ渡った頼朝は、下総国へ進軍。 千葉常胤 が参陣。 続いて、義時が説得に成功した上総国の 上総広常 が二万騎を率いて参陣。 広常のところには 梶原景時 も来ていたようですが・・・ 時政は 武田信義 を味方につけるため再び甲斐国へ。 頼朝の異母弟で 醍醐寺 に入っていた 全成 も駆け付けてきています。 奥州平泉の 藤原秀衡 に庇護されていた 義経 も出発したようです。 鎌倉入りが近づいてきました。 都では 平清盛 が直ちに追討するよう命じました。 次回は、 義時 も甲斐国へ向かうようです。 さて、義時の初恋の人 八重姫 は、 伊東館 に閉じ込められてしまったようですが、どうなってしまうのでしょう・・・ 千葉常胤騎馬像 (千葉市:亥鼻城址) 亥鼻城 は千葉常胤の居城。 君待橋の碑 君待橋 は、常胤が頼朝を出迎えた所と伝えられています。 千葉神社 千葉神社 は、千葉氏の守護神・妙見菩薩を本尊とする寺院が始まり。 頼朝は、常胤の案内で参拝したのだといいます。 玉前神社 玉前神社 は、上総国の一宮。 1182年(治承6年)7月、 上総広常 は 玉前神社 に鎧​を奉納。 そこには、 源頼朝 の祈願成就と東国泰平を祈った願文が結び付けてありました。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

後鳥羽上皇(法皇)の崩御と祟りの噂

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後鳥羽天皇 は、第82代天皇。 父は高倉天皇、母は坊門殖子。 安徳天皇 は異母兄。 源実朝 の妻 坊門信子 は従兄妹にあたる。 平家が 安徳天皇 と三種の神器を奉じて都落ちしてしまったことから、神器のないままに即位した天皇として知られています。 また、和歌や蹴鞠に秀でていたことでも知られ、『新古今和歌集』を編纂させています。 1198年(建久9年)、土御門天皇に譲位して院政を開始。 1221年(承久3年)、 北条義時追討の院宣 を下して挙兵しますが、大敗して隠岐に流されました( 承久の乱 )。 1239年(延応元年)2月20日、配所にて崩御。 この年の12月には 三浦義村 が急死、翌年1月には 北条時房 が急死。 この二人には、 承久の乱 の際、後鳥羽上皇から 義時追討の院宣 が下されていました。 そのため、後鳥羽上皇の祟りと噂されたようです。 1242年(仁治3年)6月15日には、三代執権の 北条泰時 が亡くなりますが・・・ 泰時の父 義時 が亡くなったのが6月13日 北条政子 が亡くなったのが7月11日 大江広元 が亡くなったのが6月10日 と 承久の乱 で朝廷軍が敗れ、後鳥羽上皇が配流された6月・7月に集中していたことから、後鳥羽上皇の怨霊による祟りではないかという噂が流れたのだとか・・・。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ