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梶原山~梶原景時終焉の地:静岡市~

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梶原景時終焉の地 1200年(正治2年)1月20日、 梶原景時 は上洛途上の駿河国清見関で在地武士の襲撃にあい、 梶原山 で自刃したのだと伝えられています。 梶原景時親子供養塔 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

源義経の奥州下り

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『平治物語』によれば・・・ 奥州の金商人吉次が京へ上ったついでに 鞍馬寺 を参詣した時の事。 遮那王(源義経)は、吉次に奥州へ連れていってくれるよう頼みます。 吉次は、共をすることを約束します。 そこへ吉次の同道者が参拝にやって来ます。 源頼政 の家人で下総国の深栖頼重でした。 遮那王は自分が 源義朝 の末子で、 鞍馬寺 に預けられていることなどを話し、下総へ連れていってくれるよう頼むと、頼重は承諾しました。 鞍馬寺 そして、1174年(承安4年)3月3日、遮那王は 鞍馬寺 を出奔。 その晩、 鏡の宿 に到着し、夜のうちに元服して 源九郎義経 と名乗ります。 鏡の宿 黄瀬川の宿に着くと、 義経 は兄の 頼朝 のいる 北条 に寄ろうとしたようですが、頼重が「後で手紙で知らせたらどうか」と言うので通り過ぎたのだとか。 下総に至った 義経 は、一年ほど深栖光重(頼重の父)のもとで暮らしていました。 しかし、平家に知られてはまずいので奥州を目指すことにします。 この時、 義経 は伊豆へ赴いて 頼朝 と対面し、奥州へ下ることを報告します。 頼朝 は、 「亡父・義朝の妾で上野国の大窪太郎の娘が、奥州へ下って 藤原秀衡 の郎等の佐藤基治の妻となり、二人の子をもうけ、今は後家となっている。そこを訪ねるとよい」 と義経にすすめ、手紙を与えたのだとか。 北条氏邸跡 (伊豆の国市) 奥州へ向かった 義経 が尼を訪ねると、子の継信と忠信の兄弟を共に付けてくれました。 さらに多賀の国府を越えたところから、吉次の案内で 藤原秀衡 のいる 平泉 に辿り着いたのだそうです。 平泉館跡 なお、 義経 は、奥州へ下る途中で上野国の松井田に一泊しますが、宿の主人だったのが、後の伊勢義盛だったのだとか。 そして、吉次は堀景光となったのだとか。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 参考までに・・・ 『吾妻鏡』によると、 義経 が1185年(元暦2年)に書いた 「腰越状」 には、諸国を流浪し、あちらこちらに身を隠していた事や、都から遠く離れた国で、土地の人や百姓に仕えて暮らしていた事などが記されています。 おそらく、奥州へ下る時の事を書いたのでしょう。

鎌倉殿の13人

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北条義時 (「承久記絵巻」) 「承久記絵巻」に描かれた北条義時。 京都文化博物館特別展「よみがえる承久の乱」図録より。 2020年の 鶴岡八幡宮 の ぼんぼり祭 で掲揚された雪洞。 2021年の 「ぼんぼりうちわ」 は三谷先生の揮毫。 2022年の大河ドラマは『鎌倉殿の13人』。 北条義時 が鎌倉幕府の権力者となるまでを描いたドラマになるそうです。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 「鎌倉殿」とは、鎌倉武家政権の長。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 「13人」とは、 源頼朝 に仕えた有力者たちのうち、頼朝亡き後、二代 頼家 の時代に執られた政策 「十三人の合議制」 の構成員。 『吾妻鏡』によると・・・ 1199年(建久10年)1月13日、偉大な将軍源頼朝が死去すると、嫡男の頼家は20日に左中将となり、26日には頼朝の家督を相続します。 しかし・・・ 4月12日、頼家が直接訴訟を裁断することを停止させ、宿老十三人による合議によって裁判することを決定しています。 その十三人とは、 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 源頼朝の正妻 頼朝と政子の長女 頼朝と政子の次女 頼朝の最初の妻 頼朝の長男 頼朝の愛人 政子・義時の兄 頼朝の乳母 頼朝の乳母 源頼朝の弟 源頼朝・源義経の叔父 源頼朝の弟 北条政子の妹・全成の妻 源頼朝の弟 源頼朝の父 後白河法皇の皇子 令旨発出を勧めた摂津源氏 源義経に臣従した荒法師 源義経の妾 源頼家の次男 北条時政の後妻 政子・義時の継母 北条義時の正室 北条義時の後妻(継室) 伊賀の方の弟