投稿

京都の鎌倉地蔵・・・真如堂

イメージ
真如堂の地蔵堂 昔、中国には白面金毛九尾の狐がいたそうです。 美女妲妃(だっき)に化けて殷の紂王(ちゅうおう)をたぶらかしますが、正体を見破られて日本へ逃げてきました。 そして、鳥羽院の前に玉藻前(たまものまえ)となって現れます。 鳥羽院は玉藻前を寵愛しますが、陰陽師安倍泰親にその正体を見破られてしまいます。 狐は下野国那須野原に逃げますが、鳥羽院が派遣した 三浦義明 の矢で脇腹と首筋を貫かれ、 上総広常 の長刀でとどめを刺されました。 その時、狐の魂は石と化しますが、石となっても悪霊となって近寄る生き物を殺したので、「殺生石」と呼ばれ恐れられるようになりました。 鎌倉地蔵 時は流れて室町時代。 源翁禅師が持っていた杖で恐れられていた「殺生石」を叩き割り、狐の悪霊を成仏させます。 そして、禅師は3つに割れた石の一つで地蔵菩薩を刻み、鎌倉に小さな御堂を建てて安置したといいます。 江戸時代になると、この地蔵菩薩を篤く信仰していた甲良豊後守宗広の夢の中に地蔵菩薩が現れ、衆生済度の霊場「真如堂」へ移すようにとのお告げがありました。 宗広はその夢告に従って地蔵菩薩を真如堂に移したそうです。 そのため、真如堂の地蔵菩薩像は「鎌倉地蔵」と呼ばれています。 真如堂 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 鎌倉との繋がりを求めて! ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

吾妻鏡が伝える奥州平泉の達谷窟毘沙門堂

イメージ
1189年(文治5年)、奥州藤原氏を滅ぼした 源頼朝 は、9月28日、 平泉 を発ち、鎌倉への帰路につきます。 その途中に立ち寄ったのが 達谷窟毘沙門堂 。 達谷窟毘沙門堂 『吾妻鏡』によると、 「達谷窟は、坂上田村麻呂らが、夷を征伐したときに、賊徒の頭・悪路王と赤頭が砦を構えていた岩屋。 田村麻呂は、この岩屋に寺院を建立し、鞍馬寺を模して多聞天像を安置。 寺の名を西光寺とし、水田を寄付した」 のだといいます。 岩面大仏 達谷窟毘沙門堂 西側の岸壁に刻まれた磨崖仏は、岩面大仏と呼ばれ、後三年の役の犠牲者を敵味方なく供養するために 源義家 が彫り付けたものと伝えられています。 蝦蟇ヶ池弁天堂 姫待不動堂 姫待滝 髢石 達谷窟毘沙門堂 https://www.yoritomo-japan.com/hiraizumi/bishamondo.html ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

吾妻鏡が伝える奥州平泉館

イメージ
柳之御所遺跡 (平泉館跡) 『吾妻鏡』によると、 金色堂 の正方に 無量光院 の北に並べて 平泉館 があって、西木戸には 秀衡 の長子国衡、四男隆衡の家が並び、三男忠衡の家は泉屋の東にあった。 秀衡 は、 無量光院 の東門の一郭に屋敷( 伽羅御所 )を構え、次男泰衡が相続して居所にしていた。 伽羅御所 柳之御所遺跡で発見された板絵 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

吾妻鏡が伝える奥州平泉の無量光院

イメージ
無量光院 は、奥州藤原氏三代の 秀衡 の創建。 無量光院跡 『吾妻鏡』は 無量光院 について以下のように伝えています。 秀衡 が建立。 堂内の四方の扉には、観無量寿経の大意を描き、秀衡の狩猟の様子も描かれている。 本尊は、丈六の阿弥陀。 三重の宝塔や院内の装飾は、全て宇治の 平等院 を模している。 平等院鳳凰堂 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ