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伊豆の流人源頼朝

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平治の乱 の敗北後、 平清盛 に捕えられた 源頼朝 は、1160年(永暦元年)3月11日、伊豆国流罪となります。 伊豆に流された頼朝は罪人ですので、その社会的な地位は否定されていました。 したがって、所領を持つこと、家来を持つこと、伊豆国の外へ出ることなどができなかったようです。 しかし、様々な援助によって、生活には困らなかったようですし、乗馬や狩猟は自由だったといいます。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 八重姫と千鶴丸 いつ頃の事なのかは定かではありませんが、伊豆国で流人生活を送っていた 源頼朝 は、監視役だった 伊東祐親 が大番役で在京のときに、祐親の娘 八重姫 と結ばれ、千鶴丸という男子を授かりますが・・・ 京から戻ってそのことを知った祐親は、激怒して千鶴丸を殺害し、八重姫を江間小四郎に嫁がせ、さらに頼朝を殺そうと計画したそうです。 祐親の次男 祐清 からそのことを聞いた頼朝は 走湯権現 (伊豆山権現)に逃れて助かったのだと伝えられています。 音無神社 (伊東市) 音無神社 が鎮座する「おとなしの森」は、 頼朝 と 八重姫 が逢瀬を重ねたという場所。 日暮八幡神社 (伊東市) 日暮八幡神社 は、頼朝が 八重姫 に会うために日暮れになるのを待ったという「ひぐらしの森」に鎮座します。 産衣石 (伊東市) 祐親に殺された千鶴丸の遺体は、川を下って富戸の海岸に流れ着いたのだといいます。 千鶴丸は、 産衣石 の上に乗せられて着衣を乾かされた後、丁重に葬られたのだと伝えられています。 三島神社 (伊東市) 富戸の 三島神社 には、千鶴丸が祀られています。 最誓寺 (伊東市) 最誓寺 は、千鶴丸の菩提を弔うために江間小四郎と 八重姫 の発願により創建されたと伝えられています。 伊豆山神社 (熱海市) 古くは、伊豆山権現・走湯権現と称されていた 伊豆山神社 。 祐親に殺されそうになった頼朝は、 伊豆山神社 に逃げ込んだのだと伝えられています。 八重姫御堂 (伊豆の国市) 頼朝のことを忘れられない 八重姫 は、頼朝のいる 北条館 を訪ねますが・・・ 頼朝は 北条時政 の娘 政子 と結ばれていました。 悲しんだ八重姫は、真珠ヶ淵に入水したのだと伝えられています。

北条政子が隠れ潜んでいた秋戸郷~熱海~

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1180年(治承4年)8月17日、 源頼朝 が挙兵。 伊豆国の目代 山木兼隆 を討ち取った頼朝は、8月20日、相模国へと軍を進めます。 その時、 北条政子 と 大姫 は 伊豆山権現 の覚淵のところに身を寄せます。 8月24日、頼朝が 石橋山の戦い に敗れると、覚淵は二人を 秋戸郷 に逃しました。 10月6日(7日とも)、頼朝が鎌倉入りするまで、二人はここで暮らしました。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

石橋山の先陣で討死した佐奈田与一義忠

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1180年(治承4年)8月17日、源氏再興の兵を挙げ、相模国へと進軍した 源頼朝 。 8月23日には 石橋山 に布陣。 先陣を命じられたのは佐奈田与一義忠。 頼朝から「 大庭景親 と 俣野景久 を討って手柄をたてよ」と命じられた与一は、郎党の文三とともに壮絶な死を遂げます。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 『源平盛衰記』によると・・・ 与一は、「 三浦義明 の弟 岡崎義実 の嫡子佐奈田与一義忠、生年25、我と思わん者は組めや」 と叫ぶと15騎ばかりで駆け出した。 一方の平家方は、 大庭景親 、その弟 俣野景久 、 長尾定景 、 曽我祐信 、 山内経俊 、 稲毛重成 、 熊谷直実 ら73騎。 豪雨の中、まず与一に近づいてきたのは岡部弥次郎。 俣野景久 と思った与一は、組み伏せて首を討つが、景久ではなかったため首を谷間に投げ捨て前進を続ける。 そして、目当ての景久と出会った与一。 組み打ちを始めるが、2人ともに馬から落ち、上になり下になりの乱闘が続き、やっとのことで景久を組み伏せた与一だったが、首を取るため刀を抜こうとしても岡部の首を斬ったときの血糊で鞘が抜けない。 そうこうしているうちに景久の従弟の 長尾定景 に討たれてしまったのだという。 そのころ文三は、谷一つ隔てた峰で戦っていたが、 稲毛重成 に与一が討たれたことを知らされる。 重成は文三を助けてやろうと「逃げよ」と声をかけるが、文三は敵方に斬り込んで屈強の兵8人を斬り倒した後、討たれたのだという。 佐奈田霊社 (石橋山古戦場) 文三堂 (石橋山古戦場) ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ