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旧幕府軍を退却させた新政府軍~鳥羽・伏見の戦い~

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鳥羽伏見の戦いは、京都南郊の鳥羽・伏見で行われた新政府軍と旧幕府軍との戦い。 1868年(慶応4年)1月2日、大坂城の 徳川慶喜 は京都へ向け約一万五千の軍勢を北上させます。 新政府軍も薩摩・長州両藩兵ら約四千五百が出陣。 1月3日、京都郊外の鳥羽と伏見で衝突。 数では三分の一にも満たない新政府軍が1日で旧幕府軍を退却させています。 城南宮 城南宮 一帯では五百数十名の薩摩兵が布陣。 鳥羽伏見の戦いは、参道に置かれた薩摩藩の大砲が轟いて始まったのだといいます。 東寺 1月4日には仁和寺宮嘉彰親王が征討大将軍に任命され、錦の御旗が翻り、薩摩・長州の士気が高まります。 東寺 には本営が置かれ、1月5日、嘉彰親王が本営に入りました。 鳥羽伏見の戦いが新政府軍の勝利に終わると、1月6日、 徳川慶喜 は大坂城を脱出して江戸へ戻っています。 仁和寺 嘉彰親王は 仁和寺 第三十世門跡。 1867年(慶応3年)、還俗を命ぜられ、仁和寺宮嘉彰親王と名乗ります。 小松宮彰仁親王銅像 (上野恩賜公園) 1882年(明治15年)、宮号を 仁和寺 の寺域の旧名小松郷に因んで小松宮に改称。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

比企能員の変で討死した比企時員と妻と子~東松山市:正法寺~

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比企時員は、 比企能員 の子。 二代将軍 源頼家 の近習として仕え、頼家が 十三人の合議制 に反発して指名した目通りが許される五人のうちの一人となりました。 1203年(建仁3年)の 比企能員の変 で討死しますが、妻は 正法寺 (岩殿観音)に落ち延び、男児を出産したのだと伝えられています。 翌年、妻は族の冥福を祈るため西国巡礼の旅に出ますが、男児は寺で育てられ、のちに北面の武士となり、1221年(承久3年)の 承久の乱 では、流罪となった順徳上皇に従って佐渡に渡ったのだといいます。 その後、子の員長とともに比企郡中山へ移り住んだのだと伝えられています。 正法寺 正法寺 は、718年(養老2年)の創建。 坂東三十三箇所 の十番札所で、岩殿観音の名で知られています。 鎌倉時代、 比企能員 が復興しました。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

弁慶の伝説~吉野山:吉水神社~

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源頼朝 の追手から逃れ、 吉野山 に逃げ込んだ 源義経 一行。 吉水院 に身を隠していたが追手が建物の外に。 すると、 弁慶 は釘二本を抜くと表に出て、追手たちの真ん中にあった岩にその釘を親指で打ち込んだのだという。 弁慶 の怪力に恐れをなした追手たちは逃げ去っていったのだとか。 吉水神社 吉水神社 は、もとは吉水院と呼ばれ、 金峯山寺 の僧坊でした。 書院には「義経潜居の間」「弁慶思案の間」などの部屋が残されています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 鎌倉との繋がりを求めて。

八大龍王雨やめたまへ~源実朝が祈念した堂:大山寺~

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「時によりすぐれば民の嘆きなり八大龍王雨やめたまへ」 源実朝 の 『金槐和歌集』 に載せられた歌です。 この歌の前書きには、 建暦元年7月、洪水が頻繁に起こり、民が嘆き悲しんでいることを思って、ひとり本尊に向かって祈念したとあります。 斉藤茂吉の「金槐集私鈔」によると・・・ 実朝が祈念したのは大山の 阿夫利神社 なのだといいます。 かつて 阿夫利神社 には八大龍王社があって、現在、 大山寺 にある倶利伽羅堂(龍神堂)がそれといわれています。 もとは二重滝の傍にありましたが、明治の神仏分離により現在地に移転されました。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

三井寺(園城寺)の教待堂~智証大師と教待和尚の説話~

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  教待堂には、智証大師(円珍)入山まで 三井寺 を護持していたという教待和尚の像が安置されています。 教待和尚は、大師を迎えると石窟に入って姿を隠したのだといいます。 のちに大師が石窟の上に建てたのが教待堂。 像を安置する須弥壇の下には、井戸のような石窟があり、 三井寺 の僧が出家の際に剃髪した髪を納める伝統があるのだといいます。 『古今著聞集』によると・・・ 850年(仁寿元年)、 日吉山王権現 の託宣を受けて唐国へ渡った智証大師。 その時、大師の前に現れたのが 新羅明神 。 帰国後、再び現れた 新羅明神 は、三井寺の地に寺院建立を勧め、大師の仏法を守護することを約束します。 大師が 三井寺 を訪れると、そこには教待和尚という162歳になるという老僧が待っていました。 教待和尚は、天智天皇の子孫・大友都堵牟麿(おおとものつとむまろ)を呼び出して 三井寺 建立の由来を語らせ、「長年、寺を管理してくれる者を待っていた」と話し、大師に寺の寄進を申し出ました。 そして、間もなく、教待和尚は姿を消してしまいます。 教待和尚は弥勒菩薩の化身で、琵琶湖で亀や魚をとって食していましたが、庵にあった亀の甲羅や魚の骨が蓮華の花に変わっていたのだといいます。 その頃、 三井寺 は天智・天武・持統の三天皇が誕生したときに産湯に用いられたという 「三井の霊泉」 があることから「御井寺」で呼ばれていました。 智証大師は、「御井寺」を「三井寺」に改め、唐から請来した経巻法具などを納める 唐院 を建立し、 三井寺 を中興したのだと伝えられています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 鎌倉との繋がりを求めて。

スサノオが詠んだ最古の和歌~八雲神社の名の由来~

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「八雲立つ 出雲八重垣妻籠に 八重垣作る その八重垣を」 (やくもたつ いずもやえがきつまごみに やえがきつくる そのやえがきを) この歌が最古の和歌なのだといいます。 神話によると・・・ スサノオは、イザナギとイザナミの子。 皇室の祖とされるアマテラスの弟。 アマテラスが統治する高天原で乱行を重ねて追放され、出雲国に降り立ちます。 そこで、8つの頭と8本の尾を持つヤマタノオロチを退治し、生贄になるはずだったクシイナダヒメを救います。 三種の神器の一つ 草薙剣 は、スサノオが八岐大蛇を退治したときに得た神剣なのだとか。 救い出したクシイナダヒメを妻に迎えた時にスサノオが詠んだという歌が 「八雲立つ 出雲八重垣妻籠に 八重垣作る その八重垣を」。 スサノオは、ヤマタノオロチからクシイナダヒメを守るために八重垣を造って隠したのだそうです。 この歌には、雲が幾重にも湧く出雲の地で、クシイナダヒメと暮らすこととなったスサノオがその喜び表したもののようです。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 八雲神社の社名はスサノオの最古の和歌に因むもの。 八雲神社 (鎌倉:大町) 鎌倉の大町にある 八雲神社 は、祇園信仰の神社で、「八雲さん」、「お天王さん」の愛称で親しまれている大町の鎮守。 室町時代には「佐竹天王」とも呼ばれていたようですが、天王とは祇園精舎の守護神・牛頭天王のこと。 祇園信仰の神社では、現在主祭神として祀られているスサノオが牛頭天王と同一視されて祀られていました。 しかし、明治の神仏分離によって、仏教の神である「牛頭天王」や仏教用語の「祇園」が除かれます。 八雲神社は、鎌倉祇園社と呼ばれていたようですが、神仏分離によって改称されました。 八雲神社 (鎌倉:山ノ内) 鎌倉の山ノ内にある 八雲神社 は、午頭天王社と呼ばれていた神社。 神仏分離によって改称されています。 ~総本社は京都の八坂神社~ 八坂神社 八坂神社 は、祇園精舎の守護神・牛頭天王を祭神としていたことから、「祇園神社」「祇園社」「祇園感神院」などと呼ばれていました。 祇園祭 京都の夏の風物詩・ 祇園祭 は八坂神社の祭礼。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆