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六波羅探題が滅亡した日

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六波羅探題府址 (六波羅蜜寺) 六波羅探題 は、1221年(承久3年)の 承久の乱 後に設置された鎌倉幕府の出先機関。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 1333年(元弘3年)2月、討幕計画が露見して隠岐に流されていた 後醍醐天皇 が隠岐を脱出して船上山で挙兵。 3月下旬、幕府は、名越高家と 足利高氏 (尊氏)を鎮圧に向かわせますが、4月27日、名越高家は赤松則村と戦った久我畷の戦いで討死。 両軍の戦いを静観していた足利高氏は、自らの領地だった丹波篠村へと向かい反幕の挙兵をします。 そして、5月7日、赤松則村・千種忠顕らとともに 六波羅探題 を攻撃し、滅亡させました。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 六波羅は 鴨川 東岸の五条大路から七条大路一帯の地名。 951年(天暦5年)に空也が建てた西光寺が 六波羅蜜寺 と改名されたことにより、「六波羅」という地名になったのだといいます。 平安後期には、伊勢平氏の平正盛が 六道珍皇寺 付近に邸宅を構えて供養堂を建立し、その子忠盛は六波羅館を置いて伊勢平氏の拠点としました。 忠盛の子 清盛 の代には、伊勢平氏の繁栄は最盛期となり、六波羅館には清盛の邸宅「泉殿」(いずみどの)を中心に一族の邸宅が建ち並びますが・・・ 1183年(寿永2年)7月25日、平家一門は都落ち。 六波羅館は一門の手で焼き払われました。 その後、六波羅の地は 源頼朝 に与えられ、1185年(文治元年)には 北条時政 が京都守護に任命されて庁舎が置かれます。 以後、東国武士の拠点となっていました。 1221年(承久3年)の 承久の乱 後には、 六波羅探題 が設置され、周辺には探題に仕える武士の邸宅や、将軍上洛の際の御所も設置されていました。 建仁寺勅使門 建仁寺 の 勅使門 は、六波羅にあった平教盛の館門(平重盛の館門とも)を応仁の乱後に移築したと伝えられている。 東福寺六波羅門 東福寺 の 六波羅門 は、 六波羅探題 にあったもの。 六波羅蜜寺 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 鎌倉との繋がりを求めて。

北鎌倉アジサイ情報~明月院~2021/05/06

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明月院の紫陽花 のほとんどは 姫アジサイ 。 咲き始めた株もありますが、本格的な開花は5月下旬からになるのかと・・・ 本堂後庭園は、ハナショウブと紅葉の時期の公開でしたが、昨年から丸窓拝観が休止されているので、年中公開されています。 オオテマリ 今年から新しくできたアジサイ鑑賞の小径 シャクナゲ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~アジサイの名所~ ~開花・見頃情報~ 生育・開花・見頃の情報

北鎌倉アジサイ情報:東慶寺2021/05/06

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早咲きのヤマアジサイが咲き始めました。 ハナショウブ畑 6月上旬には イワタバコ や ハナショウブ も見ごろとなります。 カキツバタ アヤメ キショウブ ツルアジサイ イワガラミ に似ていますが、ガクの数が違います。 ツルアジサイは4枚、イワガラミは1枚。 イワタバコの岩肌 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~アジサイの名所~ ~開花・見頃情報~ 生育・開花・見頃の情報