(六波羅蜜寺)
六波羅探題は、1221年(承久3年)の承久の乱後に設置された鎌倉幕府の出先機関。
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1333年(元弘3年)2月、討幕計画が露見して隠岐に流されていた後醍醐天皇が隠岐を脱出して船上山で挙兵。
3月下旬、幕府は、名越高家と足利高氏(尊氏)を鎮圧に向かわせますが、4月27日、名越高家は赤松則村と戦った久我畷の戦いで討死。
両軍の戦いを静観していた足利高氏は、自らの領地だった丹波篠村へと向かい反幕の挙兵をします。
そして、5月7日、赤松則村・千種忠顕らとともに六波羅探題を攻撃し、滅亡させました。
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六波羅は鴨川東岸の五条大路から七条大路一帯の地名。
951年(天暦5年)に空也が建てた西光寺が六波羅蜜寺と改名されたことにより、「六波羅」という地名になったのだといいます。
平安後期には、伊勢平氏の平正盛が六道珍皇寺付近に邸宅を構えて供養堂を建立し、その子忠盛は六波羅館を置いて伊勢平氏の拠点としました。
忠盛の子清盛の代には、伊勢平氏の繁栄は最盛期となり、六波羅館には清盛の邸宅「泉殿」(いずみどの)を中心に一族の邸宅が建ち並びますが・・・
1183年(寿永2年)7月25日、平家一門は都落ち。
六波羅館は一門の手で焼き払われました。
その後、六波羅の地は源頼朝に与えられ、1185年(文治元年)には北条時政が京都守護に任命されて庁舎が置かれます。
以後、東国武士の拠点となっていました。
1221年(承久3年)の承久の乱後には、六波羅探題が設置され、周辺には探題に仕える武士の邸宅や、将軍上洛の際の御所も設置されていました。
建仁寺の勅使門は、六波羅にあった平教盛の館門(平重盛の館門とも)を応仁の乱後に移築したと伝えられている。
東福寺の六波羅門は、六波羅探題にあったもの。
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鎌倉との繋がりを求めて。