源義経らの無断任官で源頼朝が出した命令書
鎌倉の武家政権では、御家人の任官は 源頼朝 が決定して、朝廷に推薦することになっていましたが・・・ 『吾妻鏡』によると・・・ 1184年(元暦元年)8月6日、 源義経 は、頼朝の推薦なくして、朝廷から左衛門少尉の任官と検非違使の宣旨を受けました。 頼朝は8月17日に義経から報告を受けていますが、義経の言い分は「自分が望んでいたわけではないが、後白河法皇に当然の褒美と言われ、断ることができなかった」というものでした。 その後、義経は、9月18日に従五位下へ昇進し、同月15日には昇殿を許されました。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 義経が任官されたとき、関東の御家人の多くも任官されています。 壇ノ浦の戦い 後の1185年(元暦2年)4月15日、頼朝は、許可なく朝廷の官職についた25名に対し、墨俣川以東へ入ることを禁じ、これを破った者は本領を没収し斬罪に処するという命令書を発出しました。 この中に義経の名はありませんでした。 義経の名がなければ、禁令を受けた御家人やその関係者からの反発があることは必定ですが・・・ これは、義経を鎌倉政権から追放するために計算された頼朝の計画だったともいわれています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 命令書には、任官を受けた者に対する罵倒の言葉が書き添えられていました。 兵衛尉義廉 鎌倉殿は悪い主で木曽義仲は良い主だとして、親族らを引き連れて義仲に寝返ろうとし、「鎌倉殿に仕えていたら最後は落人となってしまうだろう」と言ったことを忘れたわけではあるまいな! とんでもない奴だ! 兵衛尉忠信 (佐藤忠信) 藤原秀衡の郎党が衛府に任ぜられるなど例がない。 身の程をわきまえずにその気になっている奴め!鼬(イタチ)にも落ちる! 兵衛尉重経 (師岡重経) 勘当を許して本領を返してやろうとしたものを・・・ 今となっては本領を返すわけにはいかない。 澁谷馬允 (渋谷重助) 父の重国は在国していたのに、平家に従って戦い、木曽義仲が大軍で京都へ攻め上ると義仲に従って京に留まった。 また、義経が入京するとそれに参じた。その後の合戦で勇敢であったので勘当を解いて召し抱えようとしたのだが・・・ 首を切られることとなるので、上手な鍛冶屋に首に巻く鉄を作らせて巻いておけ! 小河馬