鎌倉の武家政権では、御家人の任官は源頼朝が決定して、朝廷に推薦することになっていましたが・・・
『吾妻鏡』によると・・・
1184年(元暦元年)8月6日、源義経は、頼朝の推薦なくして、朝廷から左衛門少尉の任官と検非違使の宣旨を受けました。
頼朝は8月17日に義経から報告を受けていますが、義経の言い分は「自分が望んでいたわけではないが、後白河法皇に当然の褒美と言われ、断ることができなかった」というものでした。
その後、義経は、9月18日に従五位下へ昇進し、同月15日には昇殿を許されました。
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義経が任官されたとき、関東の御家人の多くも任官されています。
壇ノ浦の戦い後の1185年(元暦2年)4月15日、頼朝は、許可なく朝廷の官職についた25名に対し、墨俣川以東へ入ることを禁じ、これを破った者は本領を没収し斬罪に処するという命令書を発出しました。
この中に義経の名はありませんでした。
義経の名がなければ、禁令を受けた御家人やその関係者からの反発があることは必定ですが・・・
これは、義経を鎌倉政権から追放するために計算された頼朝の計画だったともいわれています。
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命令書には、任官を受けた者に対する罵倒の言葉が書き添えられていました。
兵衛尉義廉
鎌倉殿は悪い主で木曽義仲は良い主だとして、親族らを引き連れて義仲に寝返ろうとし、「鎌倉殿に仕えていたら最後は落人となってしまうだろう」と言ったことを忘れたわけではあるまいな!
とんでもない奴だ!
兵衛尉忠信(佐藤忠信)
藤原秀衡の郎党が衛府に任ぜられるなど例がない。
身の程をわきまえずにその気になっている奴め!鼬(イタチ)にも落ちる!
兵衛尉重経(師岡重経)
勘当を許して本領を返してやろうとしたものを・・・
今となっては本領を返すわけにはいかない。
澁谷馬允(渋谷重助)
父の重国は在国していたのに、平家に従って戦い、木曽義仲が大軍で京都へ攻め上ると義仲に従って京に留まった。
また、義経が入京するとそれに参じた。その後の合戦で勇敢であったので勘当を解いて召し抱えようとしたのだが・・・
首を切られることとなるので、上手な鍛冶屋に首に巻く鉄を作らせて巻いておけ!
小河馬允(小川氏)
やっと勘当を許してやり、目をかけようと思い始めていたに・・・
心根が良くない!何のために任官したんだ!
兵衛尉基清(後藤基清)
目が鼠に似ている奴め、おとなしくしていればいいものを、任官などとんでもないことだ!
馬允有経(波多野有経)
小者のくせに。木曽義仲追討で活躍したから許してやったのに・・・
おとなしくしてればいいものを、任官するなど未曽有のことだ!
刑部丞友景(梶原朝景:景時の弟)
シワガレ声で髪が薄い奴め、刑部のガラじゃない!
兵衛尉景貞(梶原景貞:朝景の子)
合戦で勇敢に戦ったと聞き、大事にしようと思っていたが、任官などとんでもない事だ
兵衛尉景高(梶原景高:景時の二男)
人相が悪くおかしな奴が任官など誠に見苦しい!
馬允時経(中村時経)
虚言が多く、官職が好きで、揖斐庄のことも知らない奴が、悪い馬を育てちゃうんじゃないの!
兵衛尉季綱
勘当を許してやっているのに、無意味な任官だ
馬允能忠(本間能忠)
勘当を許してやっているのに、無意味な任官だ
豊田兵衛尉(豊田義幹)
色白で、しっかりしない顔つきの奴め、おとなしく仕えていればいいのに任官などしやがって!
親父も不覚もので、何度も参陣を呼びかけたが、関東を平定してからやってきやがった!
兵衛尉政綱
兵衛尉忠綱
本領を少し返してやるはずだったに、叶うことはないだろう!おろかな奴め!
馬允有長
右衛門尉季重(平山季重)
ふわふわした顔しやがって、とんでもない任官だ!
左衛門尉景季(梶原景季:景時の子)
縫殿助(山内重俊:経俊の子)
宮内丞舒国
大井渡では、声も出せずにいた臆病者が任官だと!見苦しい限りである。
刑部丞経俊(山内経俊)
官職をどう使うんだい!無益なことよ
他にも任官した奴らがいるが、誰が何の官職を受けたかを明らかにする必要もない。
他の連中も京都から本国に帰ろうとなど考えぬことだ!
右衛門尉友家(八田知家)
兵衛尉朝政(小山朝政)
この両人、鎮西へ下ったときに、京都で任官するなんて事は、鈍い馬が道草を食っているの同じだ!