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源頼朝と清水寺から授かった観音像

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『吾妻鏡』によると・・・ 源頼朝 の守り本尊は二寸銀の「正(聖)観音像」。 この観音像にはこんな伝説が・・・ 頼朝が3歳のときのこと。 乳母が 清水寺 に参籠して頼朝の将来を心を込めて祈ること二七箇日(14日)。 夢のお告げがあって、にわかに二寸銀の正(聖)観音像を授かったのだといいます。 そのため、心から敬い信じていたのだそうです。 清水寺 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~挙兵と法華経~ 1160年(永暦元年)3月11日、前年の 平治の乱 で 平清盛 に敗れて 伊豆国 流罪となった 頼朝 。 流されたのは 蛭ヶ小島 だったと伝えられています。 それから20年経った1180年(治承4年)・・・ 源氏再興の挙兵 を果たすこととなった頼朝。 挙兵前月の7月5日、走湯権現(伊豆山権現:現在の 伊豆山神社 )の覚淵を 北条館 に呼び出した頼朝はこう問います。 「心に思うところがあって、法華経を千回読誦つもりでしたが、火急の事態になってしまい、続けることが難しくなってしまいました。 ですから、転読八百回にして仏に願いを申し上げようと思いますがいかがでしょうか」 この問いに対して覚淵は 「千回に満たなくても仏の心に背くことにはなりません」 と答え、香と花を仏前に供えて祈りました。 そして、 「頼朝さまは 八幡大菩薩 の氏人で、法華経八巻をいつも持経している方。 八幡太郎義家 さまの旧跡を継いで、東国八カ国の勇士を従えて、八条に住む重大犯罪人・平清盛一族を退治することは、頼朝さまの掌中に握られています。 これは八百回読んだことによるご利益です」 と答えたのだといいます。 ※法華経のなかの25番目の経典が観音経。 伊豆山神社 (熱海市) ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~挙兵と清水寺の観音像~ 1180年(治承4年)8月17日、挙兵した頼朝。 清水寺 から授かった観音像を髻に入れていました。 伊豆国の目代 山木兼隆 を討ち、20日には相模国へと進軍します。 しかし・・・ 8月24日、 石橋山 で 大庭景親 ・ 伊東祐親 の平氏軍に大敗し、土肥郷椙山の山中に逃れます。 大庭軍の追跡が厳しい中、 しとどの窟 に隠れ潜んでいた頼朝は、髷の中に

源頼家が書写した般若心経~三嶋大社~

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1203年(建仁3年)8月10日に 源頼家 が病気平癒のために書写して 三嶋大社 に奉納したという 般若心経 。 『吾妻鏡』によると・・・ 1203年(建仁3年)7月20日、急病となった頼家は、翌8月7日にはかなり苦しい容態にあったようです。 その後頼家は・・・ 8月27日、 頼家 が危険な容態となったため、長男 一幡 が跡を継いで日本国総守護と関東28ヶ国の総地頭となり、弟の 実朝 が関西38ヶ国の総地頭となることが決定されました。 この決定に不満を持ったのは 比企能員 (頼家の乳母夫)です。 9月2日、病床の頼家のところに娘の若狭局(頼家の側室)を遣わして、北条氏征伐の謀り事をしたのだといいます しかし、 北条時政 は先手をうって 能員 を暗殺し、比企一族も 北条義時 らに攻められ滅亡しました( 比企能員の変 )。 9月5日、病状が少し回復し、この事件を知った頼家は、 和田義盛 と 仁田忠常 に時政討伐を命じますが・・・ 義盛は文書を時政に差し出しています。 9月7日、北条政子の命により 頼家 は出家し、翌日には弟の 実朝 が三代将軍に決定されました。 そして、9月29日、伊豆の 修禅寺 に流された頼家は、翌年7月18日に暗殺されてしまいます。 23歳でした。 源頼家の墓 (修禅寺) ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

長谷寺へ朝参り~鎌倉の四万六千日~2020/08/10

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長谷寺 の本尊は、木造では日本最大級といわれる 十一面観音像 。 右手に錫杖を、左手に蓮華の花瓶を持ち、蓮華座ではなく岩座に立つという独特の像で、「長谷寺式十一面観音」と呼ばれています。 坂東三十三箇所 第四番札所。 今年も観音様の御影をいただく事ができました。 経蔵 経蔵 内にある「輪蔵」と呼ばれる回転式の書架を一回転させると、全ての経を読んだのと同じ功徳があるといわれているのですが・・・ 今年は、新型コロナウイルスの影響で輪蔵を回すことはできませんでした。 かきがら稲荷 長谷寺の観音さまは、牡蠣殻に導かれてやってきたのだといいます。 和み地蔵

戦艦武蔵の碑~大宮氷川神社~

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武蔵は、大日本帝国海軍が建造した最後の戦艦。 艦内にあったという武蔵神社の御神体は武蔵国 氷川神社 から分霊したもので、1942年(昭和17年)8月5に行われた竣工式には氷川神社の神主が招かれたのだといいます。 無敵の不沈艦と呼ばれた武蔵でしたが、1944年(昭和19年)10月25日、シブヤン海海戦で沈没。 武蔵が沈没した位置などは不明でしたが、2015年(平成27年)3月3日、 マイクロソフト共同創業者であるポール・アレンが、自らが率いる海洋調査プロジェクトがシブヤン海の水深1000mの海底で武蔵の船体を発見したと発表しています。 氷川神社

源実朝の誕生日

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『吾妻鏡』によると・・・ 1192年(建久3年)8月9日、晴れて風も穏やかな日でした。 朝早くから 北条政子 が産気づきます。 加持は 鶴岡八幡宮 別当の円暁。 祈祷は義慶坊と大学坊など。 鶴岡八幡宮 と相模国の神社仏閣には、馬を寄附して読経させています。 福田寺 〔酒匂〕 平等寺 〔豊田〕 範隆寺〔平塚〕 宗元寺 〔三浦〕 常蘇寺 〔城所〕 王福寺 〔坂本〕 新樂寺 〔小磯〕 高麗寺 〔大磯〕 國分寺 〔一宮下〕 弥勒寺 〔波多野〕 五大堂 寺努寺 觀音寺 〔金目〕 大山寺 靈山寺 〔日向〕 大箱根 惣社 〔柳田〕 一宮 〔佐河大明神〕 二宮 〔河匂大明神〕 三宮 〔冠大明神〕 四宮 〔前取大明神〕 八幡宮 天滿宮 五頭宮 黒部宮 〔平塚〕 賀茂 〔柳下〕 新日吉 〔柳田〕 そして、午前10時頃に男子が誕生。 のちの 源実朝 です。 悪魔払いのため、弓を鳴らす「鳴弦」と、鏑矢を放つ「引目」の儀式が行われます。 北条義時 らは護刀(まもりがたな)を献上しました。 また、 大江広元 らによって刀と馬が献上され、これらが加持祈祷を行った験者や寺社に与えられています。 次に、乳母である 阿波局 が乳を与える役として参上します。 阿波局は、 政子 の妹で、 頼朝 の異母弟 阿野全成 の妻。 そして、御名字定めがあって「千万」と名付けられました。 (一般的に幼名は「千幡」という字が使われているようです。) 源実朝を祀る白旗神社 (鶴岡八幡宮) 「ぼんぼり祭」 の最終日(8月9日)は 実朝 の誕生日。 白旗神社 では、 実朝 の遺徳を偲ぶ「実朝祭」が行われます。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 8月10日の鎌倉は功徳の日! ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

石山寺で『源氏物語』を起筆した紫式部

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紫式部(むらさきしきぶ)は、平安時代中期の作家・歌人・官僚。 998年(長徳4年)頃、藤原宣孝と結婚しますが、わずか3年後の1001(長保3年)4月25日、宣孝は疫病のため卒去。 その現実を忘れるために物語を書き始めた紫式部。 それが評判となり、一条天皇の中宮彰子(藤原道長の娘)に仕えるようになります。 そして、宮仕えをしながら完成させたのが『源氏物語』。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 源氏の間 「源氏の間」は 石山寺 の 本堂 の相の間にある部屋。 1004年(寛弘元年)8月15日、 石山寺 に参籠中だった紫式部は、中秋の名月が琵琶湖に映る美しい景色を見て、この部屋で『源氏物語』を書き始めたのだといいます。 『源氏物語』の冒頭は「桐壺」の巻ですが・・・ この日、紫式部は「須磨」「明石」の巻の一節を書きとどめたのだとか・・・ 在原行平(光源氏のモデルの一人)が蟄居を余儀なくされた須磨での日々を重ねあわせながら、「須磨」「明石」の両巻から書き始めたのだといいます。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 紫式部の供養塔 宝篋印塔の笠を3つ重ねた層塔(三重宝篋印塔)は紫式部の供養塔と伝えられ、様式から鎌倉時代のものと推定されるもので、国の重要美術品に認定されています。  ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 須磨寺 「須磨には、年返りて、日長くつれづれなるに、植ゑし若木の桜ほのかに咲き初めて、空のけしきうららかなるに、よろづのこと思し出でられて、うち泣きたまふ折多かり」 「若木の桜」は光源氏が紫の上を想って植えた桜。 須磨寺 の 源平の庭 に「若木の桜跡」が残されています。 源平の庭 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 鎌倉との繋がりを求めて。