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源頼朝を支えた官僚:二階堂行政

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二階堂行政は、藤原南家乙麻呂流・工藤行遠の子。 母は 熱田神宮 大宮司藤原季範の妹。 ※ 源頼朝 の母 由良御前 は藤原季範の娘。 永福寺 (二階堂)の近くに住んだことで二階堂氏を称した。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 『吾妻鏡』によると・・・ 1184年(元暦元年)8月24日、幕府に新たに設置される公文所(のちの政所)の上棟式を 三善康信 (善信)と担当。 同年10月6日の公文所の吉書始では、 大江広元 が別当に任じられ、行政は 中原親能 ・ 足立遠元 ・中原秋家・藤原邦通らとともに寄人(よりゅうど)に任じられている。 1191年(建久2年)1月15日の政所の吉書始では、次官(令)に就任。 1199(建久10年)1月13日に頼朝が死去すると、20日には 頼家 が家督を相続するが、4月12日には 頼家 の訴訟親裁が停止され、 宿老13人による合議制 によることが決定されると行政もその一人に加わった。 生誕年・死没年ともに不明。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 政所下文 1192年(建久3年)9月12日、小山朝政に対して下野国日向野郷地頭職を補任した下文。 将軍家政所下 下野國日向野郷住人 補任地頭職事 左衛門尉朝政 右壽永二年八月 日御下文云以件 人補任彼職者今依仰成賜政所 下文之状如件以下 建久三年九月十二日案主藤井(花押) 令民部少丞藤原(花押) 知家事中原(花押) 別当前因幡守中原朝臣(花押) 前下総守源朝臣 案主藤井は藤井俊長・令民部少丞藤原は二階堂行政・知家事中原は中原光家・別当前因幡守中原朝臣は 大江広元 のこと。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 永福寺跡 永福寺 は、1192年(建久3年)、 源頼朝 が 奥州平泉 の寺院を模して建てた寺院。 廃寺となってしまったが、本堂の二階堂の名は現在も地名として残されている。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河は北条義時

清水寺の音羽の滝

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霊水が流れ落ちるパワースポット 「音羽の滝」 (おとわのたき)。 清水寺 は、はじめ「北観音寺」という名でしたが、音羽の滝の清水が人々に知られるようになり「清水寺」と改められたのだといいます。 「おとわ」は地名で、もとは「乙輪」と書かれていましたが、鎌倉時代の公卿藤原家隆が流れ落ちる音が鳥の羽音のようだと詠んだことから「音羽」と書くようになったのだとか・・・ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 鎌倉との繋がりを求めて。

吉野山:大橋~護良親王軍と鎌倉幕府軍の激戦地~

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大橋 大橋の下は敵の侵入を防ぐためにつくられた堀。 1333年(元弘3年)、吉野山で討幕の挙兵をした 護良親王 は3千の兵で鎌倉幕府6万と戦います。 大橋付近で激闘が繰り広げられ、今でも攻めが辻とも呼ばれているそうです。 1週間も持ちこたえた護良親王でしたが落城。 このとき、護良親王の身代わりとなって自害したのが村上義光でした。 大橋の先には 村上義光の宝篋印塔 が建てられています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 鎌倉との繋がりを求めて。

大宮氷川神社

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氷川神社 は、BC473年(孝昭天皇3年)4月の創建と伝えられています。 古代・中世には関東武士団から信仰され、1180年(治承4年)、 源氏再興の挙兵 をして鎌倉に入った 源頼朝 は 土肥実平 に命じて社殿を再建して社領3000貫を寄進、1197年(建久8年)には神馬神剣を奉納しているのだそうです。 楼門 舞殿 拝殿 祭神は、須佐之男命 (すさのお の みこと)・稲田姫命 (いなだひめ の みこと)・大己貴命 (おおなむち の みこと)。 氷川神社

八田知家築城という小田城~つくば市~

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小田城は、常陸国筑波郡小田邑(現在のつくば市小田)を本拠とした小田氏十五代の居城。 小田氏の祖 八田知家 が1185年(文治元年)に築いたのだと伝えられています。 南北朝期には、南朝の後醍醐天皇の側近北畠親房が拠って『神皇正統記』を起稿したことで知られています。 戦国期になると、佐竹氏の侵攻を受けて小田氏は小田城を失い、1602(慶長7年)、佐竹氏の秋田移封に伴って廃城になりました。 1935年(昭和10年)、小田城跡周辺約21.5haが国の史跡に指定され、現在は「小田城跡歴史ひろば」として公開されいます。 知家の築城と伝わる小田城跡の北東方向には、社会福祉事業に力を注ぎ医王如来と呼ばれた 忍性 が暮らしていたという三村山(宝篋山)がある。 忍性は西大寺律宗の僧。 1252年(建長4年)、本格的な布教活動のために関東へ赴いた忍性は、知家を祖とする小田氏の外護を受けて常陸国の三村山極楽寺の清冷院に入って布教活動を行った。 2017年(平成29年)11月、宝篋山山頂には、生誕800年を記念して忍性像が建てられている。 茨城県つくば市小田2377-1 つくばエクスプレス「つくば駅」から、つくバス小田シャトルで「小田東」又は「小田中」下車。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河は北条義時

鎌倉御家人:八田知家~鎌倉殿の13人~

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八田知家:『前賢故実』より ~国立国会図書館デジタルコレクション~ 八田知家は、常陸国八田(現在の筑西市)を本拠として八田武者所と称した武将。 下野国宇都宮氏 の二代当主・宇都宮宗綱(八田宗綱)の四男で1142年(康治元年)の誕生。 源頼朝 の乳母を務めた 寒河尼 は姉。 源義朝 の十男という説もあるが・・・ 義朝の九男は1159年(平治元年)に生まれた 源義経 。 『保元物語』によると、知家は1156年(保元元年)の 保元の乱 に義朝の郎党として活躍しているようなので、義朝の十男とするには無理がある・・・。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 1180年(治承4年)、 源頼朝 の 挙兵 に参じ、下野国茂木郡地頭職を安堵される。 1183年(寿永2年)2月、 野木宮合戦 で 小山朝政 らととも頼朝の叔父志田義広と戦い勝利。 源平の戦いでは・・・ 1184年(元暦元年)8月8日、頼朝は平家討伐のため主力武士団を弟の 範頼 に与えて西国へ派遣。 知家も従軍した。 範頼軍は、翌1185年(元暦2年)1月26日には豊後国へ渡り、2月1日には葦屋浦の戦いに勝利するなど、3月24日の 壇ノ浦の戦い での平家滅亡に貢献。 しかし、前年に 源義経 が頼朝に無断で左衛門少尉の任官と檢非違使の宣旨を受けたとき、知家も右衛門尉に任官されていたため、4月15日の頼朝の手紙で「西国へ下る途中の京都で任官されるなど、どんくさい鈍い馬が道草を食っているようなものだ」と罵られている。 1189年(文治5年)7月17日、 千葉常胤 とともに 奥州征伐 の東海道(常磐道)の大将軍に任ぜられ、7月19日に出陣。 1193年(建久3年)6月、前月に起こった 曽我兄弟の仇討ち 事件をきっかけにして、同じ常陸国の多気義幹(たけよしもと)の謀叛を訴え、義幹の所領を没収させた。 1199(建久10年)1月13日に頼朝が死去すると、20日には 頼家 が家督を相続するが、4月12日には頼家の訴訟親裁が停止され、 宿老13人による合議制 によることが決定されると遠元もその一人に加わる。 1203年(建仁3年)6月23、 頼家 への謀叛の疑いで捕えられ、常陸国へ流されていた 阿野全成 (頼朝の異母弟)を誅殺。 1218年(建保6年)3月3