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片瀬江ノ島駅の新しい駅舎

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2019年2月からリニューアル工事が行われてきた片瀬江ノ島駅の駅舎。 なかなか凄い竜宮城が出来上がりました。 まだ内部の工事が行われていて、もうすぐ完成のようです。 黄金の龍とイルカ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 水天門 壇ノ浦の戦い で入水した 安徳天皇 を祀る 赤間神宮 の 水天門 を丸くしたような感じ・・・ 江の島に夏を呼ぶ天王祭は、新型コロナウイルス感染症の影響で中止となっています。

葵祭と斎王と賀茂斎院(紫野斎院)

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2020年の葵祭の行列は、新型コロナウイルス感染拡大防止のため中止となっています。 葵祭 は平安時代から続く祭事。 賀茂別雷神社 (上賀茂神社)と 賀茂御祖神社 (下鴨神社)の例祭です。 斎王代 祭の見どころは路頭の儀(行列)。 特に斎王代の行列が人気のようです。 斎王代とは、かつて賀茂神社に奉仕していた斎王の代理。 斎王には、未婚の内親王または女王がなっていました。 初代は、嵯峨天皇の皇女・有智子内親王。 第35代で、後鳥羽天皇の皇女・礼子内親王が退下するまでの約400年間続きました。 賀茂斎院跡の碑 (檪谷七野神社) 斎王の住まいは 賀茂斎院 (紫野斎院)と呼ばれ、1212年(建暦2年)に第35代・礼子内親王が退下した後、 承久の乱 の混乱などもあって廃絶したそうです。 賀茂斎院は、 今宮神社 の近くにあったという伝承もあるようですが、近年では 檪谷七野神社 周辺の一画だと推定されているようです。 葵祭 https://www.yoritomo-japan.com/nara-kyoto/aoimaturi.html 鎌倉との繋がりを求めて!

浅草寺の九代目團十郎『暫』像~鎌倉権五郎景政像~

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浅草寺 の九代目團十郎の『暫』像は、 鎌倉権五郎景政 。 『暫』(しばらく)は、歌舞伎の演目で歌舞伎十八番の一つ。 鎌倉権五郎景政は、平安時代後期に活躍した桓武平氏の流れをくむ武将。 鎌倉で人気の 御霊神社 の祭神です。

『吾妻鏡』にみる「曽我兄弟の仇討ち」

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『吾妻鏡』によれば・・・ 1193年(建久4年)5月8日 、 源頼朝 は 「富士裾野の巻狩」 のため鎌倉を発ちます。 従った御家人は・・・ 北条義時、足利義兼、山名義範、小山朝政、小山宗政、結城朝光、里見義成、佐貫廣綱、畠山重忠、三浦義澄、三浦義村、千葉胤正、三浦義連、下河邊行平、稲毛重成、和田義盛、榛谷重朝、阿曽沼廣綱、工藤祐経、土屋義淸、梶原景時、梶原景季、梶原景高、梶原景茂、梶原朝景、梶原景定、糟谷有季、岡部三郎、土岐三郎、宍戸家政、波多野義景、河村義秀、加藤太光員、加藤次景廉、愛甲季隆、海野幸氏、藤澤淸親、望月重隆、小野寺道綱、市河行房、沼田太郎、工藤景光、工藤行光、祢津宗直、中野助光、佐々木盛綱、佐々木義淸、澁谷重國、小笠原長淸、武田信光など。 他にも射手が多数集まり数え切れなかったといいます。 曽我の里から見える富士 (小田原市) ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 5月15日 、富士裾野に到着。 頼朝 には南向きの五間の仮屋が建てられ、御家人の宿舎も同じように軒を並べて建てられました。 この日は、殺生禁断の日であったため終日宴会。 頼朝の仮宿 (富士宮市) ☆ ☆ ☆ 5月16日 、 頼朝 の嫡男 頼家 が 愛甲季隆 の指示により初めて鹿を射とめます。 頼朝 は大いに喜び、狩りを打ち上げにして「矢口祭」(やぐちのまつり)が行われました。 「矢口祭」は、狩りのはじめのときなどに三色の餅を供えて山の神を祭り射手を饗応することで、 北条義時 が黒・赤・白の三色の餅を献上しています。 ☆ ☆ ☆ 5月22日 、 頼家 が鹿を射とめたことを鎌倉の 北条政子 に知らせるために使者となった梶原景高が戻ってきます。 景高は勇んで 政子 に報告しましたが・・・ 「武将の嫡子が原野の鹿や鳥を獲るのは珍しいことではない。 安易に使いをよこすのは、かえって煩わしいだけだ」 と言われたのだそうです。 ☆ ☆ ☆ 5月27日 、狩りの最中に大鹿が現れます。 弓の名手といわれる工藤景光がこの大鹿を狙って矢を放ちますが当たりません。 二の矢、三の矢も外しました。 この時景光は・・・ 「十一歳の頃から狩猟の技を自慢としていました。 七十余歳のこれまで狙