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源実朝を暗殺した公暁~鎌倉検定~

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源実朝を暗殺した、頼家の遺児公暁は出家していたが、どの社寺の別当だったか。 (第11回鎌倉検定試験2級) 三代将軍 源実朝 は、1219年(建保7年)正月27日、 鶴岡八幡宮 で行われた右大臣拝賀式後に暗殺されました。 実朝を殺したのは、甥で 鶴岡八幡宮 の別当だった 公暁 。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 公暁 は、1200年(正治2年)、二代将軍 源頼家 の次男として誕生。 幼名は善哉(ぜんざい)。 父 頼家 は、1203年(建仁3年)9月、将軍職を廃され、伊豆 修禅寺 に幽閉された後、翌年7月、北条氏によって暗殺されました(参考: 比企能員の変 )。 公暁が5歳のときでした。 源頼家の墓 (修禅寺) その後の善哉は・・・ 『吾妻鏡』によれば、 1211年(建暦元年)9月、12歳で 鶴岡八幡宮 別当の定暁(尊暁)の弟子となり、上洛して 園城寺 で修行します。 法名は「公暁」。 園城寺 それから6年後・・・ 1217年(建保5年)5月11日、鶴岡八幡宮別当の定暁が入寂。 北条政子 は 園城寺 の 公暁 を呼び戻し、同年6月20日、鎌倉へ帰って来た公暁を鶴岡八幡宮の別当に就任させます。 公暁 が初めて 鶴岡八幡宮 を神拝したのは10月、その晩から千日間の参籠を始めました。 そして、将軍 源実朝 を暗殺する1219年(建保7年)正月を迎えます。 鶴岡八幡宮 1219年(建保7年)正月27日、右大臣拝賀式を終えた 実朝 が石段の上にさしかかると、突然 公暁 が襲いかかり、 実朝 は殺害されました(参考: 源実朝の暗殺 )。 実朝 の首を取った 公暁 は、後見人の備中阿闍梨の雪ノ下 北谷の家 に行き、食事の間も 公暁 の首を放さなかったといいます。 その後、山越えをして 三浦義村 邸に向かった公暁でしたが、 義村 に遣わされた 長尾定景 に討ち取られ、首は 北条義時 邸に運ばれたということです。 公暁悲劇の道 三浦義村 邸へと向かうため、公暁が使ったのがこの道ということで 「公暁悲劇の道」 と呼ばれているようです。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 公暁が源実朝を暗殺するときに鶴岡八幡宮の大イチョウの陰に隠れていたとする逸話が初めて紹介された文献は何か (第6回鎌倉検定試験3級)

源頼朝が蛭ヶ小島で見た夢~隠れ里伝説:鎌倉検定~

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伊豆で蛭ヶ小島に流されていた源頼朝の夢枕に、「かくれ里の稲荷」という神霊が立ち、挙兵を勧めた。頼朝はこの託宣に従い挙兵、戦いに勝利したという。のちに、この「かくれ里」の地で祠を見つけた頼朝は、だれに命じて社(後の佐助稲荷神社)を建てさせたか。 (第9回鎌倉検定2級) ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 佐助稲荷神社 源頼朝 が 畠山重忠 に命じて建立させたという 佐助稲荷神社 。 伝説によると・・・ 源頼朝 が、まだ 伊豆国 の 蛭ヶ小島 の流人だった頃、病に臥していた 頼朝 の夢枕に白髯の老人が現れます。 そして、 「汝は平家を討つ天命を負うものである。早急に挙兵して天下を統一すべし。」 と告げ、 頼朝 の問いかけには、 「鎌倉隠里(かくれさと)の稲荷大明神」 と名乗って姿を消したのだといいます。 1180年(治承4年)、夢のお告げによって 挙兵 した 頼朝 は、それから50日ほどで鎌倉入りを果たします。 1185年(元暦2年)には 壇ノ浦 で平家を滅ぼし、 大倉の御所 に武家政権の府を誕生させます。 そして、西方の霊地に祠が発見されると、 畠山重忠 に命じて社を造らせました。 (創建年ははっきりしませんが、建久年間(1190~99)のことといわれています。) それが、現在の 佐助稲荷神社 だと伝えられています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 蛭ヶ小島 1159年(平治元年)の 平治の乱 で 平清盛 に敗れ、翌年、 伊豆国 の 蛭ヶ小島 に流された 源頼朝 は、 尾張国野間 で暗殺された父 義朝 の菩提を弔いながら、約20年間を 伊豆国 で過ごしました。 流人時代の頼朝は、「佐殿」(すけどの)と呼ばれていました。 初陣を果たした 平治の乱 で、一時、右兵衛権佐(うひょうえごんのすけ)に任ぜられたためです。 すぐに 平清盛 に敗れて解官されてしまいますが、伊豆では「佐殿」と呼ばれ続けていたようです。 佐助稲荷神社 の「佐助」という名には、「佐殿を助けた」という意味があるのだとか・・・ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

鎌倉:妙隆寺の白フヨウ2019/08/15

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妙隆寺 https://www.yoritomo-japan.com/page043myoryuji.htm ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

令和元年:鶴岡八幡宮の例大祭

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1187年(文治3年)8月15日に、 源頼朝 が催した放生会を起源としているという 鶴岡八幡宮の例大祭 。 現在は、新暦に換算して9月14日から16日に行われています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 浜降式 浜降祭 は、例大祭前日の9月14日早朝に 由比ヶ浜 で行われる祭事。 身を浄(清)めるために宮司以下祭人が海に入って禊(みそぎ)をします。 浄めのしるしとして採取された海草が境内各所に掲げられ、夕刻(午後6時)から宵宮祭(前夜祭)が行わます。 神幸祭 9月15日は、午前10時から例大祭。 祭事を終えると舞殿で 八乙女の舞 が奉仕されます。 午後1時からは 神幸祭 。 応神天皇、比売神、神功皇后の神輿が 若宮大路 の御旅所( 二の鳥居 )まで渡御します。 八乙女の舞 御旅所でも 八乙女の舞 が奉仕されます。 流鏑馬 最終日(9月16日)は小笠原一門による 流鏑馬 が奉納されます(午後1時から)。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~土肥実平の焼亡の舞~ 1180年(治承4年)8月、 石橋山の戦い に大敗し、しばらく山中をさまよっていた 源頼朝 一行は、 土肥実平 の手引きで真鶴から安房国へ船出することとします。 その途中の山上から見えたのは土肥館が焼け落ちる光景でした。 実平は頼朝の前で「我が家は何度も焼けば焼け」と謡い舞ったといいます。 それが今に伝えられている 「焼亡の舞」 。 ※上の写真は湯河原町の 土肥祭 で演じられた「焼亡の舞」。 鶴岡八幡宮 https://www.yoritomo-japan.com/page041hatiman.htm ☆ ☆ ☆ ☆ ☆