1105年(長治2年)2月15日、奥州藤原氏の祖・ 清衡 は、前九年、後三年の役の犠牲者を敵味方なく供養するため、平泉に 中尊寺 建立に着手します。 それから21年後の1126年(天治3年)3月24日、清衡は中尊寺の落慶供養を行っているようです。 その後の平泉には二代基衡によって 毛越寺 が、基衡夫人によって 観自在王院 が、三代秀衡によって 無量光院 が建立され、奥州藤原氏は栄華を極めます。 しかし、1189年(文治5年)、 源頼朝 が奥州に攻め入り、9月3日、四代泰衡が殺害されたことにより奥州藤原氏は滅亡しました。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 『吾妻鏡』によると、1189年(文治5年)9月17日、清衡以下三代が建立した堂舎などの事が記された「寺塔已下注文」(じとういげのちゅうもん)という報告書が提出されます。 それによると 中尊寺 は・・・ 堂塔は40余、禅坊は300余。 清衡が奥六郡の管理を初めて最初に建てられた寺で、白川の関(福島県白河市)から外の浜(青森市)までの道に一町(約109m)ごとに、面に金色の阿弥陀像が描かれた笠塔婆を建て、その中央を計り、その山の上に塔を建てた。 寺院の中央には多宝寺があって、釈迦如来と多宝如来を安置。 塔と多宝寺の中間に道を通して関所を置き、旅人の往来の道とした。 釈迦堂 には、百余体の釈迦如来像を祀った。 両界堂の仏像は木造で金色。 二階大堂 (大長寿院)は、高さは五丈、本尊は三丈の金色阿弥陀仏、脇立の九体の阿弥陀仏は丈六。 金色堂 は、建物全てが金色で、堂内には三つの壇があって全て螺鈿で飾られ、阿弥陀三尊、二天、六地蔵は定朝の作。 鎮守は、南に日吉社を崇敬し、北に白山宮を勧請。 その他、宋の一切経を納める経蔵など・・・ 清衡は、 延暦寺 、 園城寺 、 東大寺 、 興福寺 など国内の寺から、中国の天台山まで、寺毎に千僧供養を行った。 (※千僧供養とは、千人の僧を招いて食事を提供し、法会を営むこと。) そして、死に臨んでは、極楽往生を願う「逆修」を始め、百日目に当たる日に、病気でもないのに、合唱し、念仏と唱えながら、眠るが如く眼を閉じた。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 『吾妻鏡』によると、奥州藤原氏の滅亡後、 中尊寺 をはじめとする寺々について 源頼朝 は、その維持