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護良親王が大塔宮と呼ばれた理由~鎌倉検定~

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大塔宮護良親王御遺跡の碑 (比叡山延暦寺) 鎌倉検定の問題にはこのようなものがあります。 (問)鎌倉宮の祭神護良親王が「大塔宮」と呼ばれるようになったのはなぜか。 1 大塔という場所に居を構えていたから。 2 父である後醍醐天皇から名付けられたから。 3 若いころ比叡山延暦寺の大塔に入室していたから。 4 大塔という場所で亡くなったから。 正解は3。 ただ・・・比叡山延暦寺の大塔って何なのでしょう??? 東塔 のことでしょうか・・・ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 「三千院の由来」 のページによると・・・ 1318年(文保2年)、 護良親王 は尊雲法親王として梶井に入室し、1328年(嘉暦3年)には、天台座主となり大塔宮と敬称されたのだといいます。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 三千院は、延暦年間に最澄が 比叡山東塔 に開いた円融院(円融房)を始まりとしています。 (三千院と呼ばれるようになったのは、明治に入ってからで、それまでは「円徳院」「梨本門跡」「梶井宮」「梶井門跡」などと呼ばれていたようです。) 1086年(応徳3年)、坂本の梶井を本拠として「梶井宮」と称されるようになり、1130年(大治5年)には、堀河天皇の皇子・最雲法親王が第14世梶井門跡となりました。 以後、皇室や摂関家の子弟が歴代の住持となっていたようです。 1232年(貞永元年)に焼失した後は、京都の洛中や東山を点々としていたのだといいます。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ さて・・・ 護良親王 が大塔宮と呼ばれるようになった理由ですが・・・ 一説には、「東山岡崎にあった法勝寺の九重塔(大塔)周辺に門室を置いたとみられることから」というのがあります。 梶井門跡は京都市内を転々としていたといいますので、護良親王が入室した時には東山にあったのかもしれません。 (※法勝寺は1076年(承保3年)に白河天皇が建立した天台宗の寺院でした。) この説によるとですが、 鎌倉検定の問は、「大塔という場所に居を構えていたから」という記述の方が正解に近いような感じもします。 護良親王を祭神とする 鎌倉宮 のHPには、大塔宮と呼ばれた理由について書かれていないようなので、何とも言えませんが・・・ 詳しく調べてみると面白いかもし

2017腰越漁港の「みなとまつり」は10/08

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今年の腰越漁港の みなとまつり は10月8日(日)。 おいしい浜汁 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 腰越漁港

鎌倉:成就院のハギ2017/09/27

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これは極楽寺門前に咲いていたハギ 成就院 https://www.yoritomo-japan.com/page136jyojyuin.htm

鎌倉:海蔵寺のシオンとフヨウ2017/09/27

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門前のハギ 海蔵寺 https://www.yoritomo-japan.com/page137kaizoji.htm