別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




okadoのブログは、『中世歴史めぐりyoritomo-japan』の別冊。
京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。


2017年9月29日金曜日

護良親王が大塔宮と呼ばれた理由~鎌倉検定~

大塔宮の碑
(比叡山延暦寺)


鎌倉検定の問題にはこのようなものがあります。

(問)鎌倉宮の祭神護良親王が「大塔宮」と呼ばれるようになったのはなぜか。

1 大塔という場所に居を構えていたから。
2 父である後醍醐天皇から名付けられたから。
3 若いころ比叡山延暦寺の大塔に入室していたから。
4 大塔という場所で亡くなったから。

正解は3。

ただ・・・比叡山延暦寺の大塔って何なのでしょう???

東塔のことでしょうか・・・


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

「三千院の由来」のページによると・・・

1318年(文保2年)、護良親王は尊雲法親王として梶井に入室し、1328年(嘉暦3年)には、天台座主となり大塔宮と敬称されたのだといいます。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

三千院は、延暦年間に最澄が比叡山東塔に開いた円融院(円融房)を始まりとしています。

(三千院と呼ばれるようになったのは、明治に入ってからで、それまでは「円徳院」「梨本門跡」「梶井宮」「梶井門跡」などと呼ばれていたようです。)

1086年(応徳3年)、坂本の梶井を本拠として「梶井宮」と称されるようになり、1130年(大治5年)には、堀河天皇の皇子・最雲法親王が第14世梶井門跡となりました。

以後、皇室や摂関家の子弟が歴代の住持となっていたようです。

1232年(貞永元年)に焼失した後は、京都の洛中や東山を点々としていたのだといいます。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

さて・・・

護良親王が大塔宮と呼ばれるようになった理由ですが・・・

一説には、「東山岡崎にあった法勝寺の九重塔(大塔)周辺に門室を置いたとみられることから」というのがあります。

梶井門跡は京都市内を転々としていたといいますので、護良親王が入室した時には東山にあったのかもしれません。

(※法勝寺は1076年(承保3年)に白河天皇が建立した天台宗の寺院でした。)

この説によるとですが、

鎌倉検定の問は、「大塔という場所に居を構えていたから」という記述の方が正解に近いような感じもします。

護良親王を祭神とする鎌倉宮のHPには、大塔宮と呼ばれた理由について書かれていないようなので、何とも言えませんが・・・

詳しく調べてみると面白いかもしれません。

ただ、鎌倉検定での正解は「若いころ比叡山延暦寺の大塔に入室していたから」となるようです。

大塔宮の読み方についても調べてみると面白いのかも・・・

「おおとうのみや」か「だいとうのみや」か。

鎌倉宮のバス停は「だいとうのみや」ですかね。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

参考までに・・・

『吾妻鏡』には、1186年(文治2年)閏7月16日、源義経を匿った僧兵を逮捕するため、延暦寺の大塔・西塔・横川の末寺や荘園の全てに通知したことが記されています。

延暦寺は、比叡山山内にある東塔(とうどう)、西塔(さいとう)、横川(よかわ)にある堂塔の総称です。

『吾妻鏡』の大塔というのは、東塔のことを指しているのでしょう。



法華総持院東塔



鎌倉検定




よりともジャパン.com